第十二幕「地の塩」古いオーク材で作られた階段が、太腿の軋みが伝わるようにして鈍い音を立てる。今日はとにかくよく歩いた。足の筋肉がストライキを起こしてもおかしくはないが、それは足だけではなかった。こんな仕事をいつまで続けなければならないのか見当もつかないし、恐らく明日もそれは変わらない。では、生涯そうなのだろうか。いや、そうはさせない。させてなるものか。階段を上りきり、部屋の前に立つ頃には、自己暗示にも似た自分への叱咤激励は一通り終わっていた。ドアの前でしばらく呼吸を整える。呼吸が乱れているのは身体的なものが原因ではない。嫌味な上司と見捨てられない馬鹿な同僚、それに目の離せない男のことを思うと、心配のディストリビュータがイカレそうになる。全ての階段の踊り場に取り付けられたガラス窓からは夕陽が差し込んできている。耳をすませば、隣のアパートメントで老夫婦が小言と叱咤を飛ばし合っていることや、路地裏でマリファナを含んだ煙草を吹かしながら人生への不満を楽器で掻き鳴らす男の様子も手に取るようにわかる。不協和音が生活感をかもし出すものであれば、自分はどのような音を出しているのだろう。とりあえず、目の前のドアを開けることにしよう。蝶番の音はさぞ良い音を立てるはずだ。「おかえり」志貴は窓脇にあるベッドの上で、外の様子を眺めながら、通りの店で帰りがけに買ってきた葉巻を吹かしていた。「ただいま。なんです、もう日本で買ってきた煙草が無くなっちゃったんですか?」冷蔵庫からミネラルウォータを取り出す。日本と同じ感覚で水を使っていたら、いくら給料をもらっても、左から右へ水のそれのように流れてしまう。「いや、自分へのご褒美だと思って、奮発して三本だけ買ったんだよ。けど、駄目だな。紙巻の方が俺には合ってる」葉巻の火を消すと、シエルからミネラルウォータを分けてもらう。余程、口に合わなかったのだろう。「私としては、どっちも嫌な匂いが部屋につくから嫌なんですけどね」ちょうど顔のあたりを漂っていた煙を払う。「なるべく外で吸うようにするよ」「わかりました。本当は止めてもらいたいんですから、それくらいは言うこと聞いてくださいよ」「ごめんな、我侭ばかりで」ふと、布団の上に伸ばされている志貴の足の太腿を枕にするようにして、シエルが地面に膝をつけて上半身を傾けた。「今日は、疲れちゃいました。しばらくこのままでいさせてください」返事をする代わりに、ポケットに突っ込んであった、口に合わない葉巻を咥えた。「あらら〜、ここが志貴さんの住んでるアパートですかぁ」サンヴァルツォに連れられて、というより、彼に案内させてたどり着いたアパートメントの前で、琥珀が感嘆の声を上げる。「琥珀、静かになさい!兄さんに気づかれて、逃げられでもしたら元も子も無いのよ!?」「……秋葉様、もう少し落ち着いてください」サンヴァルツォが、秋葉を鎮めている翡翠の肩を叩く。彼女は艶のある赤毛を風に乗せながら、クイっと彼の方に顔を向ける。「なんで彼女達はあんなに興奮してるんですか?」彼は何も聞かされていなかった。ビエラが志貴の名前を出した途端、三人は、特に秋葉がすぐに兄が居る場所へ連れて行けと言い出し、道中、事の次第を三人に問おうと思って足を止めると、そんな暇があったらとっとと歩けといった面持ちで睨み返され、結局、ここまで全く会話の糸口が掴めなかったのだった。「私たちの会話から、志貴様が秋葉様のお兄様だということはご推察されてますよね?」「ええ、あれだけ『兄さん』『兄さん』だなんて言ってれば、それくらいは」「ところで、サンヴァルツォ様は、コンプレックスがどれほど恐ろしいかご存知ですか」「まぁ、ねぇ。大半の異常犯罪の犯人はコンプレックスが原因で犯行に及んでいるし」翡翠はその答えに満足したらしく、大きく頷くと、言葉に波をつけてゆっくりと語る。「秋葉様は史上最大最悪、そして最強のブラコンなんです」「そんなに凄いんですか……?」思わず喉を鳴らす。最大と最悪はともかく、最強というのは流石に言い過ぎではないのか。「あれを見ても信じられませんか」少し離れて話をしていたので、振り返ってアパート入り口の方を見ると、陽炎が出ていた。それだというのに、何故か自分は寒気を覚えている。右手は武者震いをしている。この不確かな現象を前に、直感と呼ばれる類のものが、正確に答えを導き出し始めている。「ご安心ください。あれは単に秋葉様が興奮しているだけです。被害者になるのは、精々志貴様ぐらいのものでしょう」翡翠の言葉に……この娘が警戒に気づいたのだという事実に、つい片目をすぼめる。武者震いが収まるのを待って、口を開いた。「私は部屋に一緒に行くのを遠慮しようと思います」行けばそれなりの騒ぎになるであろうことは想像に易い。「賢明な判断です。あちらは秋葉様と姉さんに任せるとして、私達はビエラちゃんと一緒にここで待っていましょう。私もここまで来てあれに巻き込まれるのは嬉しくないですから」彼女がビエラに優しく微笑みかけつつ、手招きする。琥珀とつないでいた手を解くと、こちらにとことこと駆け寄ってくる様を見て、琥珀はというとやれやれとでも言いたげに首を振った。「良いのかい?」「ええ。姉さんなら台風のど真ん中で平気な顔していられますから」あの様子でなら、機材さえあれば現場からの生中継でもしてくれそうだ。「いや、君のことだよ。君も志貴にはご執心なんだろ?」「いえ……私にはもう……」翡翠が何かを言おうとしたところで、秋葉が「兄さんの部屋はどこか」と怒鳴る。サンヴァルツォが慌てて、三階に設置された窓を指差すと、秋葉が琥珀を引き連れて建物内へと突入していった。「願わくば、志貴が感づいて逃げてくれると良いんですが」サンヴァルツォの願いは聞き届けれそうも無い。当の本人は、慣れない葉巻を吸った所為で血管が詰まり、火を消してから、シエルをそのままにして眠りこけてしまったからだ。「ねぇ、サン、何でそんなに悲しそうなの?」「兄弟の感動の再会を思うと、涙が出そうなんですよ」「ふーん」レクイエムにしては安っぽい曲が、路地裏から流れ続けていた。「これからどうする?お前さんのおかげでアパートには戻り辛いしよ」行き付けのレストランで早めの夕食を取りながら、ゼフィールがソロモンに愚痴を零す。昼間の騒ぎのおかげで、いつものこととはいえ、気まずい思いをするはめになったからだ。「居候の身の癖によく言う。大体だな、貴様もあのときに調子を合わせていただろう?」「身体を張ったジョークにはそれなりの礼儀を持たないとな」「わかったわかった、俺が悪かったよ。周りのことを考えなさすぎたさ」とりあえず一応の満足といえる答えであったので、このことに関してはゼフィールは不問にすることにした。人心地を覚えながら赤ワインを舌で転がしつつ、ソロモンが当面の問題の解決方法を考えていた。「仕方ない、ルイジ神父のところに厄介になるか」「ルイジ神父って、あの爺さんのところかっ!?勘弁してくれ」昨日の教会でのやり取りが鮮明に思い出される。口元を拭いていたナプキンを、テーブルに投げ捨てる。余り行儀の良いものではない。それに顔をしかめたわけではないが、ソロモンがため息を吐いた。「とはいえ、貴様とモーテルにでも入ろうものなら、ナルバレックの奴に皮肉の材料を与えるようなものだぞ」「……わかった。今夜だけ我慢してやる。あの爺さんの小言を子守唄にして寝るのは嫌だけどな」そもそも、素直にシエルに昼間のことをそれとなく謝れば済む話なのだが、変なことに意固地になるのが彼らの癖だった。彼らが多少色をつけた勘定を机に置いて席を立ち店を出て行くと、店員達が本格的な夕食時の混雑前の軽い休憩のために、片づけを始めた。「今の客の小さい方の人、よく来ますね」「あれでも結構な歳いってるらしいから、そんなこと言うもんじゃねぇよ」顔馴染みの客ともなると、店員の間でマンウォッチングゲーム地味たものの対象に度々なる。その度に五十を越えて久しい歳の店長が想像が行き過ぎないように注意する。そうしないと、接客に影響が出かねないからだ。「そうなんですか!?」「ああ、少なくともお前さんよりは年上だな。下手したら俺より上かもな」冗談ともボケとも取れる顔つきで言う。「そんな、まさか……」「世の中、不思議なこと以上に、その不思議なことを不思議じゃ無くす事実ってもんがある。お前さん、自分が好いてる女がなんで美人なのか、って考えたことあるか」「そりゃあ、一度くらいはありますよ」本当は一度くらいでは済まない数なのだが、南部育ちにとってそれは男が男でいられる最低条件の一つだった。「そのことをその女に言ったらどうなると思う?」「……あまり考えたくないですね」「だろ?つまりそういうことだ。必要以上に客を詮索するな、わかったな」「はい」「よし、とっとと片付けろ。もたもたしてると煙草吹かす暇も無くなるぞ」一足早く自分は煙草を吹かしながら、昔のことを思い出していた。あの客は、自分がファシストの野朗の所為で兵役に就かされたときに街中で見たのと同じ顔、同じ背格好でこの店に姿を現す。もう半世紀も前の話だ。詮索したら呑気に煙草を吹かしてもいられなくなるのはわかりきっていた。昨日通った道を歩きながら、ゼフィールはどうやってあの爺を黙らせようかと考えていた。あと数分もしない内に当の本人とご対面して、嫌味なツラを相手に頭を下げなくてはならないのだ。真剣になるのも頷ける。「そんなに真剣にならんでも、神父は神父だからな。のっぴきならんことで困っていれば、何も言わずに助けてくれるさ」「だと良いんだがな」暗闇が陽の光を侵食仕切ろうとする頃に、教会についた。ソロモンが呑気な顔で中に入ろうとすると、ゼフィールが彼の肩口を後ろから掴んだ。「なんだ?まさかここまで来て怖気づいたなんて言うなよ」「違う、様子がおかしいんだ」臭う。乾いた何かを燃したような臭いがする。余り気分の良いものではない。「……あの爺さんに香を焚く趣味なんてあるか?」「ここで待っててくれ」中に入って、そのシルエットだけを見たものは、趣味の悪いオブジェが飾ってあるだけのように感じたかもしれない。引き抜かれた剣が、ルイジ神父の右胸を貫通してそのまま壁に突き刺さっていた。「……涙も出んな、これは」「ほう、それはまた難儀だな。お前は変わったものならばなんでも感激するものだと思っていたのだが」左腕に巻かれた包帯に香をまとわりつかせながら、片刃の使徒、エンハンスが、暗闇から現れた。「貴様、もう体の調子は良いのか」「久しぶりの挨拶にしては素っ気無いな。折角こうやって土産まで持参したというのに」エンハンスが神父に突き刺さった剣を勢いよく引き抜く。一メートルほど下の地面に落下した神父の体から、衝撃でどす黒い血が飛び出し、石床の中に染み込んでいく。どうやら刺されて間もないらしい。きちんとした術式で治療すれば、まだ十分に助けられる。「何のために神父を刺したんだ」「ちょいとお前さんに顔見せようと思って寄ったらよ、この爺さん、俺の正体に気づいたらしくてな。喚かれると困るから釘付けにしてやったのさ」「一分でケリをつけてやる」それが術式治療が間に合う限界だ。実際のところ、今すぐにでも治療を始めなければ危険な状態だ。「あのとき、お前と真祖の姫君とお前の同僚、それに遠野志貴とその妹の五人がかりで倒せなかったのによく言う」「あのときは人質がいたからな」「そうか」戦闘が始まった瞬間、ソロモンが神父の方に突き飛ばされた。あっけに取られたのはエンハンスだ。自分がアベンジャーを抜いて相手に向かおうとしたとき、その相手が自分を掠めて飛んでいったのだから。神父のが倒れている横の壁に叩き付けられたソロモンは、犯人が誰か見当がついていた。「ゼフィール、貴様……邪魔をするな!」その細い体のどこからそこまで爆発的な攻撃力を出したのか。彼女は腰の後ろの鞘に収められたナイフの柄を掴みながら、ゆらりと左手を前に出した構えを取る。「お前はすぐにジジイの治療を始めろ!こっちは俺がやる」ソロモンは、ちっ、と舌打ちをしながらも、言われた通りに神父の治療を始める。「実戦体術か。だが、それだけではないんだろ?」「ああ、異名は伊達じゃないさ」「異名、だと?」「身をもって教えてやる」コンマ単位の秒数で抜かれた聖装砲典も、発射することは叶わなかった。撃鉄が下りなかったのだ。思わぬ裏切りを受けたエンハンスは、ナイフによる必殺の一撃こそいなしたものの、その空振りした反動を利用した回し蹴りに反応し切れなかった。よもや、こうも早く接近戦を強いられるとは。入り口方向に五メートルほど飛ばされながらも、受身を取って体勢を立て直す。「あんたの相棒が機嫌を損ねた理由、わかるかい?」「……錆、だと」錆など生じるはずのない程に手入れをしていたにも関わらず、撃鉄の付け根には明らかに錆ができていた。しかも、それは広がりつづけている。「俺の異名は『塩』。鉄だけに留まらず、あらゆる人工物を錆びさせることができる。流石に、そのナイフみたいに特殊なものは簡単に錆びさせられないがね」「それは既に錆とは言わず、腐食といったほうが正しくないかね?」「気づかなかったな、それは」「今日は手合わせできただけ良しとしよう……本気を出すと余計な客まで呼びそうだからな」「それが賢明だ。早くしないと、もう一方の相棒まで錆び始めるぞ」ふん、と一息鳴らして、エンハンスは去っていった。そこでゼフィールの意識は途絶えた。ゼフィールが目を覚ますと、そこは心地の良い背中の上だった。ソロモンに背負われているらしい。ソロモンがゼフィールの意識が戻ったことに気づくと、ねぎらいの言葉の代わりに愚痴を零す。「まったく……お前が能力を使うと、体の塩分が抜けて血流が弱くなるんだからな、あまり私の手を煩わせるなよ」ゼフィールが滅多に能力を使わないのもこのためで、結果、基本戦闘力を高めるために実戦体術を習得している。「……ジジイはどうなった?」「命に別状がない程度まで私が治療した後、本部に連絡して、安全な場所で療養させるように手配させた。現場検証のおかげで、あの教会は今夜は使えそうもない」「どうすんだよ」肝心の寝床が使えないとなるとわかると、途端に悪態をつく。「シエル君達と合流した方が良いだろうな。エンハンスがまたいつ現れるかもわからん」「それじゃ、着くまでその小さい背中で頑張ってくれよ」ポンと肩口を叩くと、ソロモンは多少渋い顔をしたものの、珍しくやり返さずにため息一つで済ませた。「……まぁ、許してやる。先ほどの礼もあるからな」しばらく会話が途切れる。人気の無い路地が、二人を取り巻く。妙な照れくささを覚えたゼフィールが、我慢できずに口を開いた。「爺さん、なんか言ってたか?」「とてもお前には言えないようなことだ」「たはぁ……嫌われてるなぁ、俺。好いてもらおうとも思ってないから別に構わないけどよ」「そうでもないさ」本部の救急隊員に運ばれていくルイジ神父が、最後に零した台詞が頭の中でリフレインする。『お前の役に立ってくれる人間が側にいるなら、その人間の役に立ってやれ』それがその言葉だった。「ん?」「いや、独り言だ」昔から、塩は様々な者の役に立つことで様々な例えに用いられた。聖書の一節、『地の塩』とは地上で最も役に立つ人間のことである。役に立つ、とは利益を得るというだけの意味ではない。そのことを頭の中で考えながら、彼は背中の重石を担ぎなおした。2003年6月11日初稿