第十三幕「The Pride of the Tyrant」乾きすぎてゴワついた口が非常に不快だった。肩から提げた鞄から、飴玉の袋を取り出す。暑さで溶けることを見越して、一つ一つを梱包してあるタイプのものを持ってきたのだが正解だったようだ。表面が溶けて袋の内側に張り付いている。飴玉を袋から指先でひねり出すようにして口に放り込むと、柑橘系の味と匂いが口から鼻へと通り抜けていった。ふと―――最後の足掻きとばかりに強い―――西日と、足の疲れから逃れるようにして壁にもたれかかっている三人の中の、会って間もない少女、ビエラと目が合った。対応に逡巡したものの、飴玉を一つ取り出してビエラに差し出した。話を聞く限りはこの子の父親らしい男性は、ビエラが礼を言うのを待って、彼女の頭を撫でた。「すみませんね、翡翠さん」「なんでしたら、サンヴァルツォ様もお一つどうですか」サンヴァルツォが「お言葉に甘えて」とばかりに笑顔で、差し出された飴玉の袋の中から一つを取り出す。口の中からころころと飴玉が歯に当たる音がする。路地裏から聞こえていたギターの音色は既に途絶え、代わりに夕食の支度をする家々の台所の音が聞こえている。先に飴玉を舐め終えた翡翠が、ぽつりと呟いた。「始まります」飴玉を噛み砕く音が景色に染みた。異変はより自然に近いところから起こる。アパートメントの水道管が破裂したのである。後に修理を担当した業者の者は「水道管内で急激な圧力の変化、或いは水が凍ったために起こった断裂、後に圧力差により破裂したものと考えられる。後者は当日の気温及び周辺環境を考慮しても有り得ないため、老朽化が原因と判断。早期に建物内全ての水周りを点検・補修及び取り替えを該当物件の管理者に勧告した」と報告書に記載している。古い積層型物件では水周りのトラブルが多い。上の階の部屋にある風呂場の水が下の階に漏れるなどは序の口で、水道管に亀裂が入り、そこから染み出した水が周囲のコンクリートや鉄筋などを浸食して、終いには倒壊に至った例もある。一部的な破損であれば、壁の中の水道管のことなど誰も気づかなかったかもしれない。しかし、建物の一階から三階の全てでそれが起こり、一種の共振作用とでも言えるものを発生させ、当時建物内にいた全員が異変に気づいた。全員とはいっても、住民でいたのは三階のシエルと志貴だけである。サンヴァルツォ、ビエラ、メレム・ソロモンその他の住民全ては外出していた。もっとも、住民以外ならば二名いた。「秋葉様ァ〜?」琥珀の呼び掛けに秋葉は応えず、建物全体に神経を張り巡らすかのように意識を集中させている。琥珀は壁の中から聞こえるミシミシといった音や、ビシッといった音に戸惑いながらも、質量を伴った幽霊とでも例えよう秋葉の歩みに、ついていった。そしてとうとう、三階の部屋にたどり着いた。「あれ?」秋葉が直ぐにでも踏み込むものだと琥珀は思っていたのだが、彼女が呼吸を整え終わってもまだ部屋のドアの前で仁王立ちをしていた。「秋葉様、どうかなされましたか?」琥珀としては、すぐにでもゴングを鳴らして、スリルというのを求めて止まない、自身の心の中の観客をヒートアップさせてやりたいのだが、当の挑戦者が入場してくれないのではそれもできない。「琥珀」「はい、なんでしょう?」とうとう突入だろうか。「この先に兄さんがいるのね」「ええ、そのはずですけど」当たり前の問答はその後も続いた。そうこうしている内に、壁の中の音は止み、琥珀も暑さを覚え出した。秋葉の「略奪」能力が和らいできているのである。秋葉は、まるで、憧れているベースボールプレイヤーの楽屋に入ろうとしたまま、緊張して、立ちんぼになってしまった少年のようだ。こういうとき、大概は周りの後押しが必要である。「ほら、秋葉様、折角ここまで来たんですから……さあ」流石に琥珀も主人の扱いは心得たもので、秋葉の腕を掴んで、ドアノブを握らせた。内心、ロープ越しにリングへジャンプするぐらいの入場を期待していた琥珀だったが、今は秋葉をその兄に会わせたいという感情の方が強いようだ。琥珀は秋葉の腕に力が込められたのを自分の手で感じ取ると、それをそっと放した。志貴が浅い眠りから目覚めたときに耳にしたのは、壁の中から聞こえる奇怪な音だった。シエルもそれに気づいたようで、預けていた志貴の太腿から頭を持ち上げた。「何の音でしょうかね」「……まさか不良物件!?」志貴なりにボケを利かせたつもりだったのだが、「あながち間違いとも言えませんね」とシエルに返されてしまった。「建てられて大分経っているらしいですから……ソロモンの話だと、今までは誤魔化し誤魔化ししながら持ち堪えてきたそうですが、今度こそ駄目かもしれませんね」「いや、そんな冷静に言われても」志貴の言いたいことは唯一つ。「もしここに住めなくなったらどうするのか」それだけだった。落ち込む気持ちと頭を持ち上げながら問い質すと、インスタントコーヒーを飲むためもにヤカンに火をかけてから彼女が答える。「念のため、今のうちから物件を探しておきましょうか」とはいえ、今はそんな暇は無い。死徒がいつ攻めてくるかわからないという状況下で、のんびり物件探しなどままならない。しかも、イタリアの不動産事情は芳しくない。希望どおりの物件を見つけようと思ったら、人生設計をする並にゆとりを持つ必要がある。「ま、悩んでも仕方ありませんから、とりあえず珈琲でも飲みましょうか」ちょうど良くお湯が沸いたので、一旦思考を断つ。シエルとは反対に、志貴はまだ悩んでいたが。ぶっちゃけたところ、志貴は社会経験が皆無であるから、それは当然であった。一人暮らしをしたこともなければ、どこかに勤めたこともない。学校の外の世界は知ったかぶりする程度しか知らないというのが、実際である。自分で生計を立てていくようになると、学生のように勉強さえしてれば良いというわけにはいかない。かといって、あれもこれもと考えていると、精神が潰れる。一つ一つをやり終えながら、結果を顧みて次に生かすしかない。「有馬の家や屋敷に居たころは考えてもみなかったな」「そうですね、そうかもしれません。有馬の家に居た頃は知りませんけど、少なくともお屋敷の方に居た頃は、身の回りは琥珀さんや翡翠さんがやってくれていたみたいですし、家のことは秋葉さんが考えていたようですしね」実際は親族の誰かしらが後見人という形を取って遠野家の面倒を見ているのだろうが、それと折り合いをつけつつ主張を通す秋葉の社会性の高さは、シエルから見て十分に買えるものだった。尤も、社交性という点では、同じ年頃の者達と変わらないのであろう。志貴は、一人で得心しているシエルを横目で見ながら、珈琲に口をつける。「でもさ、だからって秋葉が俺に固執するのは筋違いだと思うんだよな」「はあ」他人の家の内部事情については興味を抑えているのか、シエルが生返事をする。志貴はそれに構わず続ける。「琥珀さんとさ、何気なく『秋葉の胸はなんで小さいのか』って話してたときなんてさ」「……それって、何気なくするような話題なんですか」シエルが眉を左右非対称に歪める。「まぁ黙って聞いてよ」「わざわざ盗聴器越しにそれを聞きつけて『兄さんの愛情が足りないからですよ』なんてことを、微笑みながら言ってきたんだよ……どうよ?」「……どっちもどっちだと思いますよ、それ」志貴の愚痴は止まらない。誰に気遣う必要も無いかのように愚痴る。最終的に最初と同じ話をし始める。悦に浸っている志貴を尻目に、シエルは風呂場の様子を見に行った。「―――それで俺は思うんだ。秋葉の胸が小さいのは、母性を切り売りしてる所為なんじゃないか、と―――って、あれ?シエル?」ようやくシエルが聞いていないことに気づいた志貴が、少々気を悪くしながらも珈琲に口をつけたとき、風呂場の方で破裂音が聞こえ、それと同時にシエルが悲鳴をあげた。彼は気づくのが遅すぎた。部屋の風通しが良くなっていることに……。「兄さん、お久しぶりですね?」恐る恐る、テーブルとは反対側の、声のした入り口の方に首を回す。「あれ、琥珀さん、どうしたのこんなところに?」「志貴さん、わざとらしく現実逃避しないでくださいね〜」琥珀の言葉に「あはっ」という笑いの語尾が付けられた瞬間、正に空気が凍りついた。ソロモンが帰宅中にタクシーを拾えたのは幸運だった。流石に夕方を過ぎたとはいえ大通りを、傍目から見たら女性であるゼフィールを背中に負ぶさせながら通り過ぎるのは、彼の矜持が許さなかったからだ。「お連れさん、大丈夫ですかい?」気さくな運転手は、ルームミラー越しに後ろの様子を気遣う。ぐったりしているゼフィールに、彼女が携帯していた塩分入りのミネラルウォータをソロモンが飲ませている。「ああ、ちょっと陽気に当たったみたいでね。悪いが、そこの路地を右に行ってもらえるか?細くて大変だろうが……」「へへっ、腕が鳴りますぜ」白色の車体が蛇のように路地に這い入ると、カエルではなく蛇が驚いた。「ありゃ!?」急ブレーキではあったが、徐行していたので大した衝撃ではなかった。「どうした」少々、苛立ちながら言い放つと、運転手が信じられないものを見たような表情で、後ろに振り返った。「いやね、雨が降ってるんですよ」「ほう、それは珍しいな。この時期に雨など」皮肉のつもりで言ったのだが、運転手はそれどころではないといった様子で、流石にただ事ではないことが起こっていることに勘付いた。「いえ……それが……」運転手が気を利かせて、後部座席のウィンドウを手元のコンソールで開けるとそこからソロモンが顔を出して確認した。「……すまんが、しばらくここで待っていてくれ。色はつけるからな」「へ、へぇ……」運転手が承諾するのを待って、ゼフィールをそのままに自分だけ車を降りた。数十メートル前方では、局地的な降雨が確認できた。通りに面した建物の壁一面から、水が地面に向かって降り注いでいたのである。周辺は、早く建物の責任者を呼んで来いといった怒声や、水の下で歓声を上げている子どもなどで大騒ぎである。それから逃れるようにして立っている知人をソロモンは発見した。背広の襟を整えてから、声をかけた。「何の騒ぎだ、これは」声をかけられたサンヴァルツォが首を回す。「ああ、ソロモンか。それが、私にもなにがなんだか、さっぱりで―――」「詳しくは私が説明致します。ソロモン様」仏頂面でサンヴァルツォの答えを聞いていたソロモンは、ぬらりと現れた女性に面食らった。「何故に君がここにいる」「話せば長いのですが……」翡翠がその長い説明とやらを終えた頃には、給水塔に貯蔵されていた水はあらかた放出され尽くし、辺りには水溜りだけが残った。とりあえず事態が収束したことに観客が気づくと、それぞれの家に愚痴や感嘆を口にしながら入っていった。「何か言ってやりたいが、その気力も無い」とりあえず建物内にいた当事者を管理人室にかき集め、それぞれの言い分を聞き終えた際に口を突いて出た答えはそれだけだった。琥珀と翡翠の使用人姉妹は、水圧で飛び散った壁の欠片を片付けたり、床に溜まった水をふき取ったりしており、ビエラもそれに倣っている。濡れた服を着替えたシエルはゼフィールを介抱しており、志貴はというと秋葉と一緒にソロモンに頭を下げつづけている。秋葉にとっても、この事態は予測したものではなかったらしいことがその様子からわかった。残った気力を絞り出して、ソロモンは事後処理のために方方に連絡を取った。そんなこんなで、どうにか夕飯時までにはあらかた片付けも終わり、手配も終わった。当面、水周りは全く使い物にならないものの、それ以外ではひび割れた壁に目を毒される以外は支障が無いことがそれまでにわかった。「……下手をすると建て替えだな、これは」夕方のエンハンスとの戦闘からこの騒動を経て、ようやくソロモンは一息いれることが出来た。有り得ないことが原因ではあるが、有り得る原因を基に作られるであろう報告書を盾に上申すれば、それなりの費用は捻出されるであろうから、その点は心配ではなかったが、だからといって開け放った怒りの引出しを押し戻したのでは示しがつかない。とはいえ、腹が減ってはなんとやらで、待ってもらったままだったタクシーの運転手に仲間に連絡を取ってもらい、合計で三台のタクシーで手ごろな飲食店に繰り出した。夕飯時に営業しているのはどこも大人数を目当てにしているので、そちらの手配は直ぐにつき、到着した頃には食事の準備が整っているという具合だった。「最期の晩餐ならぬ、最悪の晩餐だな、これは」そうソロモンに散文評された席で、これからのことが一通り決まった。秋葉一行は、事実関連の報告が終わる当面の間、空き部屋である二階に住んでもらうこと。エンハンスに対して警戒すること。明日の朝一番に一度本部に出頭すること。それらが話し終わった頃には、食事も大分片付いた。「それにしても、情報規制が甘いな。翡翠君に聞いたような記事の書き方では、全く関係の無い奴まで呼び寄せるようなことになる。下手をすると、諸外国からの献金にも影響するぞ」ヴァチカン市国の財源はどこか。それは深く言及してはならないことになっている。恐らく彼らはその全てを把握しているであろう数少ない人間であるが、幸い、外に漏らす気は無いようである。精々、今回のように酒の肴に毒を飛ばしあう程度である。「それは大丈夫だと思うぞ。これといった話題が最近無かったから、教皇も同情を惹きたいんだろうよ。これでテロ撲滅に関する声明文に説得力が出るようになれば、立場が好転するからな。以前に彼が狙撃されたときにも、似たような結果になったろ。下手に情報規制をすれば、逆に余計な詮索を招くことになるんじゃないか?」今頃は、BBAと似たような役割をしている国内向け放送のYASで、人気キャスターのピネッロか或いはガスパドゥロあたりが毒舌を披露していることだろう。前者はともかく、後者は誇張が過ぎるきらいがあるので、好きにはなれない。「他人事のように言ってくれるな」「上の連中の考えてることなんて、他人事だよ」ゼフィールの口調にいつもの調子が戻っていることに内心喜びつつ、両手に華とは名ばかりの、険悪な雰囲気に包まれた志貴とその両側に座っているシエルと秋葉に目を向けた。「嫁と小姑」琥珀の感想は実に辛辣であったが、的確でもあった。彼女は知らないが、既に志貴とシエルは、戸籍上では夫婦扱いであるのだから。「始めます!3、2―――」AD達が合図と共にカメラの見切り範囲から外に身体を引っ張り出し、放送が開始された。お得意の片肘をつけた体勢でキャスターのピネッロがカメラ目線を意識する。「こんばんわ、YASニュースの時間です」その日の視聴率は過去に五例しか記録されていない程のものとなることを、プロデューサは予想すらしていなかった。いや、そもそも打ち合わせにその原因となるようなことは伝えられていないのである。しかし、ADやその他の番組の緻密な構成を担うものたちはピネッロの直接の指示により全てを把握していた。その中の一人は、その情報の出所が気になってしかたなかったが、自分が勤めて初めて重大なスクープの現場が披露される瞬間に胸を躍らせた。それは彼だけではなく、ほぼ全ての人間が同じ事を考えていた。ピネッロだけは、あらゆる覚悟と計画、それに身を滅ぼすかもしれない好奇心の上に成り立った自身の行動に、寒気すら覚えていた。初稿2003/6/19