第十八幕「Warking On Broken Glass」奇襲というものにもセオリーがある。攻め手に対して受け手は最初に奇襲を受けた場所から一時撤退し、態勢を立て直してから攻勢に出る。こうすることにより、奇襲の効果を消すことができる。サンヴァルツォにしてもそれは理解していて然るべきであり、エンハウンスもそう考えた。では攻め手がどうするかといえば、二正面作戦を展開し、相手に態勢を整える隙を与えないようにするのもまたセオリーである。この場合、建物の上下両方からの同時突入がそれである。恐らく、サンヴァルツォが最も危険の高い、上の役を引き受けることは考えるに容易く、事実その通りになった。結果として、相手側の戦力は半減どころか激減した。集団を相手にするに際して、最初に叩くべきは頭であるから、それが上手くいったので満足すべきではあった。しかし、それなりの被害―――気づけば身体、主に上半身に浅い深い様々の切り傷―――を受けていた。いつ身体が出血と消耗によって痺れ始めてもおかしくなく、当初の予定を変更せざるをえなくなった。勝負に勝って試合に負けたというのが適切だろうか。志貴が七夜と銘じられたナイフを抜く。彼としては、エンハウンスのような「何をしでかすかわからない奴」は、この場で仕留めておきたかった。そのためには、正確に奴の死点を捉え、確実にそこに牙を突きたてる必要がある。彼にはそれを実行する良いアイディアがあった。彼が秋葉に目を配ると、第二ラウンドが始まった。エンハウンスが秋葉の視界から逃れるために、一時的に給水塔の陰に隠れる。そうすることが適わない屋上のタイルは熱量を奪われて表面から塵と化していき、陽炎のように飛沫を浮かせて散っていく。「サン、そこから離れろ!」サンヴァルツォは志貴の言葉が何を意味するのか、理解した。秋葉もそれに気づき、全ての意識を給水塔に集める。内部の水が一気に氷結していく。急激に膨張した体積に給水塔は悲鳴を上げながら爆発した。エンハウンスもそれに巻き込まれ、飛び散った破片を身体に食らい、まだ固まっていなかったらしい給水塔内から流れ出た水に足をとられながらも、とにかく跳躍した。これはもう、反射的な行動と言ってよく、地面を離れてすぐにエンハウンスも自分の致命的なミスに唖然とした。物体にとって、その物体そのものが軌道を変えられない状況というのは、いわばそれが的に過ぎなくなったということである。志貴がエンハウンスの空中での軌道を捉え、人間が発揮できる力の範囲ギリギリのリミッターを切ってしまったかのように、高さにして五メートルものジャンプをした。速度にして毎秒十二メートル。初速の時点で既に車の通常走行の速度を超えている。聖装砲典を相手にぶっ放す暇も無く、アヴェンジャーで相対するより方法が無かった。まともに身体に奴の斬撃を受ければ、その部分がこの世から無くなる。突きで、しかもとてつもない速度で突っ込んでくる相手から身を守るなどというのは、冗談にしては笑えないほどの状況である。そんなことは、どだい、無理なのだ。かわすしかない。しかして、いわんや、ここは空中である。宇宙空間であれば手足を動かして反作用により動く、などという芸当も可能だが、幸か不幸か、ここは酸素も重力もある大気圏内だった。アヴェンジャーの刃を傾け、少しでも被害を抑えようと構える。この間、瞬きする暇すら無い。だが、その努力すら無駄になってしまった。右腕に激痛が走り、アヴェンジャーが手から離れてしまう。痛いから手を離したわけではなく、右腕の神経が切断されたのである。「くそ野郎―――――――――――――――っ!!」その応えに満足したのはサンヴァルツォである。無事であった右腕を振るって、地面に落ちていたスマチェットを弾丸ほどの速さで投げ付けた結果だった。志貴がエンハウンスの中心核部の点を突いたとき、彼の時間が止まり始める。恐ろしい速度で動いていた時針が、その動きを止める幾ばくかの間に、彼らは着地した。エンハウンスがそれでもともがく。左手―――かつて琥珀のものだったそれがワナワナと震え、己の心臓部を上から掴む。「止まらせてたまるかっ!まだ、まだだ、まだなのだ!まだ私は満足していない!」左手は彼にとって最後の切り札だった。これがある限り、自分が動けなくなったとしても、補助エンジンのような役割で血液のポンプを動かすはずだった。その代わり、二度は無い。元の腕の持ち主がそのような過負荷に耐えるわけもないのだ。しかし、それは志貴が許さなかった。琥珀を死なすわけにはいかない。このような己の自己満足のために、己の二極論によってのみ動く男のために。「死なんてのは、誰だって不満なのさ」右手が切り離されたとき、エンハウンスは崩れ落ち、その身を塵とした。「――ふぅっ」「お疲れ様でした、兄さん」秋葉は、力を使い果たして座り込んだ志貴に寄り添い、額に浮かんだ汗をハンカチーフで拭う。眼鏡をかけて上を見上げると、サンヴァルツォが左腕を押さえながら立っていた。そこから一時的に手を離し、血に塗れた手の平でジャケットの内ポケットから細長いタバコケースを取り出した。「一本、いかがです?」出血はしていたが、神経まではやっていないらしく、自分の分を左手で摘んで口に運んだ。夕刻の秋葉との事件が無ければ、今回の作戦は考えつかなかったに違いない。「タバコ、吸うんですね」志貴が一本もらいながら、不自由そうにライターを取り出したサンヴァルツォに代わって、自分のジッポーで火をお互いのものに点けた。秋葉は、その煙を我慢しながら、ハンカチーフでサンヴァルツォの左腕の応急手当をした。「ビエラがウチに来てからは止めていたんですよ。でも今ぐらいは―――ね?」「なるほど。でもそれじゃ、ビエラちゃんに怒られますね。匂い、わかるらしいから」秋葉が、そりゃあもう、と言った風に志貴を見下す。「私だってすぐに気づきましたよ。兄さんが吸いはじめたことなんて」「え、そうだったのっ!?」大げさなその素振りに、一同が笑い声を漏らす。「さて、動けますか?マルグリッド女史が気になります。早くビエラ達に合流しましょう」サンヴァルツォの不安は、的中していた。走り始めてどれくらい経っただろうか。あちこちで断続的に爆発音が聞こえる度に、遠い空が火で照らされた。爆弾魔はこの街のそこかしこに爆弾を設置したらしい。「姉さん、ビエラさん、大丈夫ですか!?」ビエラの歩調に合わせているためか、或いは自身の不調からか、後ろの二人の動きが遅い。翡翠は焦りで苛立ちはじめていたが、平静を保てるよう努力している。「翡翠ちゃんは非難訓練で習わなかったんですかぁ?走っちゃいけないって―――」「これは訓練ではないですし、私はそんなものを受けた覚えもありません」姉の屁理屈に合わせている余裕までは無い。一刻も早く、安全な場所に行かなければならなかった。何かあった際の合流地点は、ソロモンのアパートであるから、そこまで行けばこの騒ぎで戻ってきた誰かと落ち合えるはずであったし、志貴達も無事であれば帰ってくる。「翡翠のお姉ちゃん、琥珀のお姉ちゃんが苦しそうにしてるんだよ、もうちょっとゆっくりしてあげて」ビエラは琥珀の容態の悪化に気づいていた。当の本人は何食わぬ顔をしているが、呼吸は乱れていたし、途中途中で足を躓かせていて、気づくなというほうが無理であった。翡翠はイタリア語と英語、それにドイツ語(それとなぜかスワヒリ語)の言語的知識は持っていたので、その意味を理解した。ちなみに、琥珀は言語的な知識は薄いのだが、どうでもいいような―――誰々が建てた何々といった―――知識だけはたくさんあった。「……わかりました。一旦休憩しましょう」翡翠がそうすることにしたのは、別にビエラの言に従ったわけではなく、これから横切ることになる通りの方の様子がおかしいことに気づいたからだった。YAS放送局が伝えるところによれば、このとき、ローマ中の爆発で警察の統制が行き届かなくなり、民衆の暴動が散発的に起こっていた。それを翡翠は知っていたわけではないが、一時的にしろ下手に動くのはまずいと判断した。何より、自分自身気づいていなかったが、随分と疲れていた。一度動きを止めると足が痺れ始め、皮靴の踵の内側には靴擦れのためか血が滲んでいた。路地に見当たった建物の昇降口部分に肩から提げていた鞄を敷いて腰を下ろす。琥珀はそんな余裕すらないようで、そのまま段差に尻を落とした。「はぁ〜〜〜、生き返りますねぇ〜〜〜〜〜」「……姉さん、本当に大丈夫ですか?」「まぁ、なんとか。先ほどまでみたいな動悸は収まりましたから―――ビエラちゃん、心配してくれてありがとうね」ビエラは言葉の意味はわからなかったが、頭に伝わる優しい掌の感触が、感謝を表しているものだということは十二分に理解できた。二十分ほど休んでから、翡翠が腰を上げた。そろそろ騒ぎが収まるころだろうし、これ以上ここにいる方が危険なように思えた。鞄を提げ終えると、姉に声を掛ける。「姉さん、行けますか?」「ええ、大丈―――」立ちかけた琥珀の膝が、地面に落ちる。それと同時に、女性の声が聞こえた。「もう少し休んでいったらどうですか?いっそ、永久に」マルグリッドがゆらりと昇降口の上の灯りに姿を現す。片手からは、短銃が鈍い光を反射していた。三八口径といったところか胸を……いや、既に無い左腕の付け根を押さえて苦しそうにしている姉とビエラを守るようにして、翡翠が前に出る。「おや……エンハウンスが死んだようですね……急がないとならないようです」「どういう意味ですか」「あら、気づいていなかったのか知ら?エンハウンスはそこにいる貴方のお姉さんから生命力を活性化させてもらっているんですよ。彼女が苦しんでいるということは、その繋がりが断ち切られた証拠に他なりません。ああ、ご心配なさらず。恐らく、彼女はしばらく苦しむだけで済むでしょう」説明が終わると、マルグリッドは短銃を翡翠に向けた。「人質は一人で十分です。エンハウンスにはああ言いましたけど……やむをえないですから」「私達を殺せば、志貴様や秋葉様が黙っていませんよ」「でしょうね」ふと見せた彼女の残滓のような悲しみの表情に翡翠が戸惑う。「ふふ、お喋りが過ぎましたね。終わりにしましょう」翡翠は気丈に恐怖に耐えていたが、それを覆すための手立ては持っていなかった。短銃の撃鉄が下りた瞬間、翡翠の目の前に剣が突き刺さり、弾を防ぐ。呆気に取られている翡翠の前に、カソックの裾を揺らめかせながら、シエルが降り立つ。「……何故貴方がこんなことをするのか知りませんけど、私が相手になります」「それには及びません」マルグリッドがおもむろに自分の頭の横に短銃を突きつける。「何を!?」「……これを」マルグリッドが車のキーらしいものを投げる。「志貴に渡してください。それと……ナルバレック様は本部にいらっしゃいます」ニコリと笑みを振りまいた後、撃鉄が下りた。弾丸が、脳漿をぶちまけながら彼女の頭を致命的に掻き回し、反対側に貫通する。その衝撃を追うようにして内容物が頭蓋骨を飛び出し、路地の壁に、刺青を施す。硝煙の金属的な悪臭が辺りに漂う。どこからともなく現れた犬が、地面に流れ出た血を舐め取っていた。その光景に嫌悪感を顕にしたシエルが、火葬式典を施した黒鍵を投げ付ける。犬は黒鍵が横腹に突き刺さったショックで死ぬと、そのまま燃え上がり、塵となっていった。発砲音を聞き付けて、近くまで来ていた志貴やソロモン達全員が集結したのは、それから五分ほど後だった。「口径が比較的でかい奴を使ったのが幸いだ。一発で絶命できたようだから」ゼフィールが検視の真似事をしながら、かろうじて形を留めている、マルグリッドの顔に布を被せた。飛び散った血はまだ新鮮で、ベトつきはじめるには至っていない。「最初からこうするつもりだったのかもな」凄惨な現場の一部始終をを見ていたビエラは先ほどからサンヴァルツォの胸に預かっている。翡翠は、正気を取り戻した琥珀に、バッグの中に入れておいた水筒のお茶を飲ませている。秋葉は、むすりとしているシエルにそれとなく、使用人を守ってもらった、お礼を述べてからこうなった経緯を聞いていた。アルクェイドとレンは、周りが何故こうも暗い雰囲気に飲まれかかっているのか見当もつかず、レンの髪を櫛で梳かしながら、これからの行動が示されるのを待っている。志貴は、シエルから受け取ったスピデルのキーを持って、車体の回収に向かった後だった。マルグリッドの遺言で、ナルバレックが埋葬機関に残っているのがわかったが、まともに動けそうなのは、志貴、ソロモン、ゼフィール、シエル、それにアルクェイドと言った按配で、そもそも、本部にどれほどの戦力がいて、また、そのうちのどれほどが敵に回るかもわからず、これからのことについて慎重に思案していた。ソロモンが垂れ下がった前髪を掻きあげる。汗の所為で、くせのない直毛の、指の通りは悪くなっている。「さて、この死体―――遺骸をどうする?」どのみち、このままにしておけば無縁仏として集団墓地に埋葬されるか、はたまた今回の騒動に関連付けられて有りがたくない処遇を受けるに違いない。下手に放置すれば、魂の運び手達によって、蛆の住処になる可能性もある。「一応、慣例では、メンバーがこうなった場合は、防腐処理の後に例の穴倉に押し込むことになってるんだが」この状況では、本部のそういった仕事を役目としている者達と連絡が取れるかどうかも怪しく、実際、特殊な交換機を通して電話してみたところ、誰も反応しなかった。「どうする?」ソロモンとゼフィールが顔を合わせる。「面倒がかからないといえばシエルの黒鍵なんだが、それだと余りにも不憫だ」その役を任されるシエルにとっても、それを受けるマルグリッドにとっても、それは当てはまった。「かといって、これを担いで行くわけにもいかないだろ?」「その役、私めらが引き受けましょう。ミスター・ゼフィール」整然と並んで、路地の向こうから怪しげな集団が現れる。幸い、格好はまともだ。三人ほどがそれぞれ私服らしいスーツを着ている。ゼフィールを除いた全員が何物かと身構える。「……大丈夫、敵じゃない」ゼフィールが手仕草で仲間達を諭す。「なぁ、ソロモン、紹介する。前に手紙で書いた連中だ」「冗談じゃなかったんだな」懐から紙の束を取り出すと、該当している部分に目を移した。「お前、俺の書いた手紙なんて持ち歩いてるのか!」「余計なお世話だ!それが嫌なら書いてくるな。第一、お前の手紙は長すぎて、こうして持ち歩かんと読み切れんのだ……」面白そうな話題に、アルクェイドが手紙をソロモンの肩越しに盗み見たが、ソロモンの言う通り、長い。性格柄なのか字は小さく、A4サイズの紙にびっしりと書いてあり、一枚あたり八百字ぐらいはありそうで、しかもそれが二十頁ほどある。下手な短編小説より長くなる計算だ。「よくもまぁ、毎度毎度こんなに書くことがあるなと感心する」「……で、そこのたしか五頁目の二四節に書いてあるのがこいつらだ」その説明を聞いて頭が痛くなる。「お前、聖書の内容を全部覚えてるクチだろ」「悪いか?」「もう何も言わん……それで、君達がこいつのファンクラブの方々、ということだが」合ってるかな、とでも言いたげに上目遣いで彼らを見遣る。「我々はあくまで、教内における、体外受胎、中絶その他の選択肢の有効性を広く世間に求めているだけです」手紙を要約すると、余りに協力の要請がしつこかったので、しぶしぶ、名刺と講演の約束をしたということだった。「要するに―――」ただの下手物好きだろ、と言いそうになった口を噤む。協力を申し出ている相手にこれはないだろう。「信用していいのかな?」ゼフィールが頷いた直後に首を振る。「どっちだ?」「いやさ、ここまでよく着いてきたなと思ってね」「何を言うのですか!」代表者らしいものが叫ぶ。それに周りの一同は目を丸くするが、それに気を遣わずに話を続ける。「斯様な場所に貴方のような方がおられて、無事でいられること自体が奇跡だというのに」ため息でそれを区切らせると、ソロモンは話題を変える。「それはいいとして、君達は何故ここがわかったのかな?」「先ほど、そこで頭を綺麗にしている方が連絡してきましてね。ちょうど私がこちらに貴方のことで来ていましたので、至急駆け付けた次第なんですよ」「なんだ、お仲間だったのか。そうならそうと言ってくれれば―――」ソロモンが独り言のようにブツブツと言った後に、はたと顔を上げる。「ちょっと待て。ということはやはり、女史は最初から死ぬつもりだったのかな?」代表の、長い髪を強引に後ろ首に突っ込んだ女性が窮屈そうに首を振る。「暴動に際しての警備態勢について火急の用事があるとのことでしたので」「……まぁ、いい。それで、任せても大丈夫なのかな」「ええ、すぐそばに我々のバンを停めてありますから、後はこちらで処理いたします」「わかった」ソロモンが納得すると、連絡先が書かれた名刺を渡す。「どこかしらに埋葬が済んだら、連絡してくれ」話は決まったとばかりに、代表の女性が支持をすると、他の二名が、遺体の両脇と太ももを分担して抱えこみ、すたすたと歩いていった。入れ違いに、連絡を入れた他の仲間が到着し、死体の痕跡などを一つ一つ丁寧に消していく。「随分と慣れているんだな」ゼフィールの皮肉に、代表者が作業の手を休めて答える。「葬儀屋もやってますので」「よし、二班に分かれる。私とゼフィール、それにシエルの三名は本部に向かう。遠野家の方々はビエラと一緒に私のアパートに戻っていてくれ。サンは車を取りに行った志貴と合流して、それに乗って本部に来ると良い。走るのは辛そうだからな」ソロモンの指示に大半が納得する中、アルクェイドが口を挟む。「私とレンは?」「……好きになさってください。出来れば、これは我々の問題ですので、貴方様にはご遠慮願いたいのですけれど」いつになく丁寧な口調で接する。アルクェイドはしばし悩んだ後(そう見せているだけなのだろうが)、答えを出した。「んー、妹達とアパートに行くわ。この子も疲れてるみたいだから」膝を落として、隣にいるレンの頭をなでる。彼女がそこまでレンに気を配る理由がソロモンにはわからなかったが、恐らくは向けるべき愛情の矛先を失った代替としてなのだろうと予想して納得すると、行動を開始した。サンヴァルツォと合流した志貴は、慣れないながらも器用に運転を続けていた。サンヴァルツォに空いていそうな道を教えてもらいながら、道を進む。街灯が死者を見送る蝋燭のように、連綿と辺りを染め抜いている。「これがマルグリッド女史の遺品になってしまいましたね」サンヴァルツォがふと呟いたが、志貴は運転に集中しているのか、或いは故意に聞き流そうとしているのか、返事をしない。しばらくして、信号で止まったときに、彼が口をようやく開いた。溶け出したガラスが炉の中からゆっくりと流れ出るようにも感じられる口調だった。「多分、あの人は最初からこうなることを知っていたんだと思う。今思えば、あのときから」「あのとき?」今度こそ、彼は二度と炉の蓋を開けはしなかった。既に、本部へはあと四分ほどというところまで来ていた。2003/7/22初稿