第八幕・彼の人は壁の中昼食を終えた志貴、シエル、ソロモン、ゼフィールの四名は、地下に埋葬機関のある教皇庁へと向かっていた。途中、率先して歩いていたソロモンが脇道に逸れる。それを見たシエルが彼に注意する。「あれ、ソロモン。そちらからだと遠回りになりますが…」ソロモンが足を止めて振り返る。その表情は少々不機嫌であった。「何を言うか。今、教皇庁の周りは軍警察やらGIS(イタリア警察特殊介入部隊)やらの連中が固めてるんだぞ。真正面から行ったら、職務質問してください、と言ってるようなものだ。この先に別の入り口に通じる地下道が掘ってある教会がある。そこに向かおうというわけだ。まぁ、先ほど出頭したときにはそんな状態ではなかったがな」それくらい君だって知ってるだろう、という意味を多分に含めて解説を終えると、ソロモンはまたスタスタと路地を進んでいく。「やれやれ、奴さんの無知に対する嫌悪感ってのは見ていてウンザリするねぇ。あれで童顔でなかったら突き倒したくなる」ゼフィールの愚痴を聞いていた志貴が鼻で笑う。そんな様子を見止めたゼフィールが彼を問い質す。「何かおかしなことでも言ったか?」「いえ、なんだかんだいってソロモンのことは嫌いでないんだなぁ、って思いまして」今度はシエルがそれを聞いて口から笑い声を漏らした。「何を言ってるんですか、志貴。彼女がソロモンを嫌いだったら、とっくの昔に殺してるに違わないですよ」「シエル、よくわかってるじゃないか♪今度、オペラにでも招待するよ」そんな会話を聞いていて、志貴は頭を抱えずにはいられなかった。人を殺すだの殺さないだのという話題で笑っていられる人間が目の前にいるというだけで、彼の理性が拒絶反応を起こしていた。「おい、何をやっている!もっと早く歩け!」ソロモンの怒鳴り声で、耳まで痛くなった志貴であった。一行が路地に面して立てられている、周りの建物と一体化してるというより、周りの建物がそれに合わせて作られているかのような教会に着くと、ソロモンが少しここで待っているように告げてから先に中に入っていった。「ここの教会に入るのも久しぶりですねぇ……前に来たのっていつでしたっけ?」シエルがゼフィールに暇つぶしの話題を振る。「俺が前に使ったのは…そうだな、教皇が嘆きの壁に行くって話が発表されたときだったかなぁ。あのときは目立つ場所からは入れなかったからな」そういう君はどうなんだ、という彼女の問いにシエルは応える。「私は実を言うとここにはあまり来たことが無いんです。なんせ埋葬機関に入ってそんなに経ってませんし…以前に来たのだって、あくまで地理を把握する程度の意味しかありませんでしたから」それを聞いたゼフィールが途端に明るい表情をする。「ということは、もしかして地下道は通ったことがないのか…くっくっく、そりゃ楽しみだ」彼女の突然の表情の変化に戸惑いながら、シエルは疑問を口にする。「そうですけど、何かあるんですか?」「何かも何も…通ってみればわかるさ。志貴も良い体験になると思うよ?」突然に話題を振られた志貴が、シエルに見えないようにして吸っていた煙草の煙で咽る。「まぁたそんなもん吸って……大体、煙草は能力を使ったときだけだ、ってつい先日約束してくれたばかりじゃないですかぁっ!」シエルの説教に志貴はわかったわかったと返事をしながらもちゃっかりと煙草は吸っている様を、ゼフィールは愉快そうな眼をして眺めていた。「なんじゃっ?!まだこんな奴がおったんかっ!」突然の我鳴り声に外にいた全員が教会の入り口に振り向く。そこには、七十歳は確実に越えているであろう、中肉中背の丸めがねを着けた神父が立っていた。道端で豪快に人を指差している。その指の先にいたのは、間違えようも無くゼフィールであった。「うあ、出たっ!」「出たとはなんじゃ!ソロモン、なんでこんな奴を……」老人の脇でソロモンが苦笑いしている。「あ〜、ウチも人材不足でして…」そういう彼の言葉を聞いているのか聞いていないのか、老人はまだ怒鳴っている。「こんな汚らしい輩を教会に入れてなるものかっ!」いい加減うんざりしてきたのだろう、ゼフィールが老人に詰め寄る。「な、なんじゃっ、この不浄者!」「ったく、さっきから聞いてれば散々なこと言いやがって…こっちだって仕事なんだ。アンタこそ仕事の邪魔なんだよ、つまり引いては神の邪魔をすることになるんだぞ、そこらへんわきまえろ、爺さん。これは前にも言ったよな?」「ぐぬぅ……」老人はそれを聞いて思わず黙らざるをえなかった。彼にとっては、自分は人間である前にカトリック信徒であり、カトリック信徒である前に神の僕なのだ。「それにだな、往来のど真ん中で女性に怒鳴る姿ってのはあまり感心できるものじゃないぜぇ?ほら、周りみてごらんよ」志貴がそれを聞き取って周りをそれとなく見てみると、住民が何事かとこちらを伺っていた。老人もそれに気づく。「普段は優しい神父様が、うら若い女性に怒鳴っている姿は、俺が性同一障害だって知らない人たちにはどう映るだろうねぇ?」「わ、私を脅すつもりか!?」「脅してなんかいないさ……教えてやってるんだよ。自分がどういう立場なのか、ってことをね。ほら、わかったらとっとと例の道を開けな」ちっ、と舌打ちをしながらも、神父は教会へと入っていった。ついてこいという意味であろう、その証拠にソロモンはその後に続いて再び教会内へと入っていった。他の者もそれに続く。「驚いたか?」神父とソロモンが揃って教会の奥の方で何か作業をしているのを他の三人が待っていると、ゼフィールが志貴に声をかけた。「ええ、まぁ…」「あの爺さんはな、先代のナルバレックの頃からこの教会の神父をやっているんだ。おかげで頭が堅いのなんの。俺が性同一障害だって知った途端、ああいう態度を取るようになりやがった。まぁ、手を出してこないあたりは大人だけどな」そこまでやらないのが普通だろう、と思う志貴の考えは甘い。先進諸国の中では、宗教的見地による、性的趣向や病気に対する偏見が非常に強い場所もある。そういったところでは、それを理由に殺人さえ起こっているのだから。「それにしても、ソロモンは死徒だってことをあの爺さんは知ってるんですか?」志貴の疑問も尤もであった。死徒といえば神に仇為す背徳者。それこそ不浄の最たる者なのではないか。そんな志貴の疑問を聞いたゼフィールは、まるで遠い日を懐かしむように語り出した。「あの神父はね、ソロモンのことをずっと可愛がってるんだ…あ、シエル!変な妄想するな!」一名、少々桃色の妄想をしていたようだ。「で、だ。そんなわけでソロモンは告解もあの神父にだけはしてるんだよ。俺でさえ知らない、奴が死徒になった経緯とかもな。だからか知らないが、神父は奴が死徒だって知った上で自然に接してる、というよりさっき言ったように可愛がってるんだ」告解とは、自分のしてきたことなどを神父などに告白することである。いわゆる懺悔ではない。キリスト教を信じる者達にとっては、祝祭日と同様に日常的なことなのである。子供が夏休みにしたことを教師の前で発表するようなものだと考えてもらって良い。形式は様々で、神父と告解する者の一対一であったり、神父と複数の告解者であったりとその土地や宗派によって微妙に異なる。そこまで黙って聞いていたシエルが、更に疑問をぶつける。「それにしても、なんでゼフィールがそんなことを知ってるんですか?私だってそんなことは初耳ですよ。ソロモンがここの神父と仲が良い、というのは聞いたことがありますけどね」ゼフィールが一瞬、それに答えるのを躊躇ったが、ふと神父と作業をしているソロモンの背中が目に入り、まぁいいかとでも思ったのか、知っていた理由を話し始めた。「元々なぁ…ここでソロモンと俺の結婚式やるはずだったんだよ」えっ、という発音をしたそうに口を開けた志貴とシエルであったが、当の言った本人であるゼフィールが今にも吐きそうなぐらいに端正に整った顔を歪ませていたため、喉から声を出せないでいた。ゼフィールにしてみれば、思い出すのも嫌なのだろう…。「ああ、ごめんごめん。ほとんど脊髄反射みたいなもんでね、気にするな。話を続けるが、ここへソロモンに招待されたときに、神父にあれやこれやと教えてもらってねぇ。そら実の子供みたいに可愛がってる奴の婚約者が来たんだ、まぁ、実際はソロモンの方がずっと年上なんだがね、神父が饒舌になったのは仕方の無いことだったと思う。俺はそんな神父の気持ちさえ裏切ったんだ……怨まれても仕方が無い。今でもこの病気が恨めしいよ。男なら男として、女なら女として、心も体も生まれたかったのに…」シエルがそれを聞いてやりきれない気持ちになったようだ。「すいません、深く聞いてはいけないことだったのに…」「いや、最終的に答えることを選択したのは俺自身だ。まぁ、今更、一度決定的に切れた縁を戻すことは無理だ。それを確認する意味もあって、神父には極力会わないようにしてるし、会ったとしてもさっきみたいに冷たく接するようにしてる」ゼフィールが納得したようなシエルの表情を見てほっとしていると、その隣でずっと真剣な顔をしたまま押し黙っている志貴に気づいた。「どうした?」そのソロモンの問いが引き金になったのだろうか、志貴が口を割る。「俺、日本にいる家族を捨ててきました…。皆の気持ちを裏切って。けど、俺だったらゼフィールさん、貴方みたいにはできない…今でも家族は家族だと思ってるから……だから、例え家族にまた会うことがあっても、前と同じように接するつもりです。俺は貴方みたいに強くないから…」シエルには志貴の言いたいことが痛いほどにわかった。彼が自分を選びここにいるのは、あくまで取捨選択の結果であって、彼にしてみればどちらも代え難いものなのだとわかっていたからだ。ゼフィールはといえば、困ったような顔をして、彼女にしては珍しくどう対応したらいいのか迷っている。「……志貴、私には私のやり方がある。逆に言えば、君には君のやり方がある。もしかしたら本当に強いのは君かもしれない。だから…そう、気にしないでいい」最後の、気にしないでいい、というのは自戒の意味もあった。しかし、彼女に迷いが生じたのは紛れも無くこのときであり、それが彼女の人生を決定する要因となるのだが、それはまだ先の話である。こじんまりとした教会ではあったが、中は壮厳な雰囲気に満ち満ちていた。入り口とは反対側の路地から入る光によって彩られる聖母子を描いたステンドグラス。天井に描かれた聖子光臨画。この建物には不釣り合いなぐらいの内装のこだわり方が、この教会が他のそれとは異なる意味合いを持っていることを証明していた。そんな中を、作業が終わったことを知らせるソロモンの声が響く。志貴達三人が側に行くと、神父が少し疲れた表情をして、椅子に腰掛けていた。志貴がそれを気遣って簡単な伊語で声をかける。「…大丈夫ですか?」「あ、ああ。少し疲れただけだから大丈夫だ」ソロモンがそんな志貴の態度に満足したのか、珍しく穏やかな顔をして説明する。「ここにある通路を使うには特殊な儀式が必要でね。その役を任じられた神父と、それを利用する埋葬機関の者が、ここに置いてある媒体に同時に祈りを捧げるのが、その儀式だ。多少疲れるのが欠点だな」志貴が媒体と言われた物に眼を向けると、それは聖十字を模っているであろう剣であった。「こいつと同じ物が埋葬機関の方に置いてある。なんでも、昔の騎士修道会の親友同士の剣士が使ってたものらしい。骨董的価値、宗教的価値、その両方が…」アンティーク好きのソロモンが得意げに喋ろうとしたところで、石畳の一部、面積にして五平方メートルが地下へ向かって沈み始めた。「…まぁ、こうなるわけだ。さて、話の続きだが…」「はいはい、さっさと行きましょう。あまり遅くなるとナルバレックが怒りますよ」そうだな、と言ってゼフィールが穴に降りると、姿が見えなくなった。志貴はシエルに手をグイっと引っ張られて、床が三メートルほど沈みこんでできた穴に入った。中に入ってみると、横穴が延々と続いているのがわかった。よほどの大男でもない限り、悠々と中を進めるぐらいに余裕がある。先の方でゼフィールが腰に手を当てて待っているのが、側壁に取り付けられたランプから浮かび上がる光によって見て取れた。そこで、志貴とシエルの二人は思わずギョっとした。石造りの地下道の両側壁には、二段ベッドのようにして掘りぬかれた場所に白骨化した死体が上下二段にそれぞれ置かれていたからだ。見た限り、出口まで続いてるようだ。シエルもこういったものを見慣れていないわけではなかったが、数がとにかく多い。それが整然と並んでいるのだから、肝を冷やすのは仕方の無いことであった。「だから言ったろ?良い体験になるって」ゼフィールの笑顔が、この異様な雰囲気に変に似合っていて、それがまた恐怖を煽っていた。「それでは神父、私も行きます。尤も、帰りにもここを使うわけですがね」ソロモンが三人の後を追おうとしたところで、神父が呼び止めた。「なんです?」「ソロモン…お前は、あの不浄者と結ばれなかったことを後悔しているな」馬鹿な、と言ってから、彼は今度こそ三人の後を追っていった。神父がそれを見送ると、聖十字の剣に祈る。すると、石畳は再び元の位置まで隆起した。「ソロモン、嘘だけは何年経っても下手なままだな。お前は図星を突かれると、必ず相手に『馬鹿な』と言う。あまり自分を驕り高ぶってはいかんぞ…」老人の独り言は、誰に聞こえるわけでもなく、ただ、ステンドグラスからの光が舞う空間に吸い込まれていった。歩く。歩く。会話などない。皆、地下道の出口へと向かって、ただ歩いていた。志貴は歩いているうちに、周りの状況に大分慣れて来ていた。歩きながら、この死体はどういった人々のものなのかを考えている。埋葬機関に繋がっている地下道という点から考えれば、少なからぬ関係を持つ者達の死体であるというのは自明である。いや、地下道というより、元々は地下墓地として造られたものであるのかもしれない。丹念に死体を見ていけば、その骨には不自然にヒビが入っていたり、欠けたりしているものが多くあることに気づくだろう。そう、ここにある死体の全てが殉教者のそれである。埋葬機関に所属していた者、協力していた者。その者達が死んだとき、それは一般の墓には納められない。一種の隠蔽工作なのであろうが、志貴はそれに思い至ったとき、なんとも遣り切れない感情に教われるのを自覚した。死んで尚、教えや埋葬機関に縛られ、このような陽も当たらず、死を惜しむ人も訪れない場所に置かれている彼ら。志貴のその考えはヒューマニズムとしては正しいのであろう。しかし、彼らの中にここで安置されていることを呪う者はいない。彼らにとっては、教えに準じ、殉じた結果としてのこの待遇を特別視こそすれ卑下するなど考えもつかないことなのだ。こうした一般的感情が通じない世界。そこへと自分が向かっており、この地下道の出口こそがその世界の本当の入り口なのだと、志貴は背筋を正した。この先が出口と思われる行き止まりで、先頭にいたゼフィールが側壁の一部を押し込むと目の前の壁が横へとずれていく。地下道に入るときに比べて随分と簡単な仕掛けであるが、ここを通っている時点で既に埋葬機関の関係者であることはわかるわけで、それも納得がいく。壁があった場所から先に進むと、すぐに階段があった。それを昇っていくと、恐らくは埋葬機関の内部なのだろう、地下道のような天然の石造りではない、コンクリート製の壁に囲まれた六畳程の狭い部屋に出た。目の前に、役所などで使われるような立派な樫の木材で造られた扉がある。「さて、ここからは私が先に歩く。志貴君、離れないようにしたまえ」ソロモンがそう告げてから扉を開く。よく手入れがされているのだろう、蝶番が扉の重々しさに似合わないキィッという軽い音を発てる。今までいた部屋を出ると、広い廊下が正面と両側のT字型に延びていた。地下のため窓は一切無く、蛍光灯の光だけが冷たくコンクリートの廊下を照らしている。精神病院の病棟のような雰囲気が漂っている中をスーツ姿の人々が書類などを片手に忙しそうに行き来しているが、騒がしさというか活気というか、そういった喧しさが無い。耳に残るのはダクトファンの回転する音と靴音だけだ。「左の廊下の先が通常の出入り口で、教皇庁に繋がっている。正面が主に埋葬機関の事務的な仕事をする者達の詰めている部屋が何個もある。そして右だが……主に私などのような特別な任務を行っている者達が実務をする際に利用する施設がある。ナルバレックの執務室もそこにある」ソロモンが志貴に内部の構造を説明し終えると、右の廊下を真っ直ぐに歩いていく。後の者達もそれに続いた。ナルバレックの執務室があるという場所に行くまでには何個も鉄格子があり、その度にソロモンが声紋照合を行って開けていく。声紋照合というのは実は一番安全性が高い。漫画のようにはテープで録音した声が受け付けられることはないし、指紋照合のように潜入者によって指や手を切り取られて利用されることもないからだ。声とは正に生きてその場にいる証拠なのだ。手続きの関係上、鉄格子をそれぞれ越えた場所にある帳簿に名前を筆記する。どうやら区画毎に地位によって入れる人物が制限されているようだ。その証拠に、鉄格子を越えれば越えるほど、人気が無くなっていく。ようやく目的の場所であろう突き当たりの扉に辿り着いた。ソロモンがノックをして名乗ると、セミロングの黒髪が美しい、若い女性が扉を開けて出てきた。ソロモンが首を志貴の方に向ける。「志貴君、紹介しておこう。ナルバレック付秘書のマルグリッド女史だ。ナルバレックの次にここの情報閲覧レベルが高いから、ここのことでわからないことがあれば彼女に聞くと良い」志貴がそれを聞いて、イタリア語で自己紹介をすると、マルグリッドが返礼をする。「はじめまして、志貴さん。貴方のことは色々と書類の上では知っていますよ」その言葉は流暢な日本語であった。埋葬機関の人間は先進諸国で使用されている言語ならば確実に喋れるのだから、驚くことは無い。そうシエルは志貴に告げたが、明らかに異国の人間が自分と同じ言語を喋れることを志貴は驚かずにはいられなかった。マルグリッドがそんな志貴の様子に微笑みつつ、室内へと一行を案内する。部屋の中に入ると、今までとは空気が違っていた。部屋の広さなどはもちろんだが、なにより生活感があったのだ。執務用であろう大き目の机の上には紅茶セットが置いてあり、カップからは湯気が昇っていた。「ああ、ちょうど休憩していたところなんです。なんせ昨日から一睡もできない状態が続いてましたから…」そう言いながら、マルグリッドが視線を天井へと向ける。上には教皇庁がある。それは教皇庁での事件が忙しさの原因であることを示していた。彼女に促されて、一向は執務用とは別の、客用のテーブルのソファに座る。「ナルバレックにこいつと志貴君を連れてきたことを伝えてください」ゼフィールが面白くない顔をする。「俺はこいつ呼ばわりかよ」ソロモンの悪態に一々反応を示す辺り、先ほどシエルが言った通り、ゼフィールはソロモンのことが嫌いなわけではないことがわかる。マルグリッドがやり取りを細目で伺い、それが終わると、かしこまりましたと言って部屋の奥にある扉をノックして中に入る。「ナルバレック様、ソロモン様が遠野志貴様とゼフィール様をお連れになりました。ご一緒にシエル様もお見えになりました」彼女の報告を、提出用の決算書のチェックを行いながら聞いたナルバレックは、書類に目を向けたまま、しばらく待つように、とだけ返事をした。一段落したら休憩も兼ねて秘書室に来てください、とマルグリッドは言ってから退室した。マルグリッド・セペ……彼女はここに来る前は地方役場で働いていた。つい昨年、ナルバレックの『発作』によって頭を砕かれる憂き目に合ったのは彼女の叔父である。その叔父が直系の家柄だったのだが、子供が既にいるためにさして問題にはならなかった、というより、ナルバレックが問題にしなかった。その後釜として今の地位についたのが、当時、秘書補佐をしていた彼女であることを志貴以外の者達はそれを知っていたが、それについては誰も触れなかった。「それにしても、御休憩の邪魔をしちゃったみたいですねぇ…」シエルがマルグリッドの髪の枝毛を見止めて、申し訳なさそうに言う。前秘書の叔父の子供が成長すれば、彼女の補佐の任に就く。それまでは煩雑な作業を彼女一人が行うのだから大変である。実際の事務的な仕事量でいえば、埋葬機関では彼女が一番多いのを誰もが知っているため、埋葬機関内での尊敬の対象となっており、ソロモンを始めとする実務部隊の者達も彼女には気遣いを見せる。「いえ、仕事ですし……それにナルバレック様の精神状態を安定させるためにも、極力私でできることは私が行うのが一番なんですよ」それが自分の安全にも繋がりますから、という言葉は彼女は口に出さなかった。正直、ナルバレックは恐ろしい。あんなにも一所懸命に働き、自分が尊敬していた叔父をなんの躊躇も無く、ただ自分が苦しいからという理由だけで殺したナルバレック。しかし、そのナルバレックの不安定さこそが、彼女がナルバレックの好きな部分でもある。ナルバレックのために自分が役に立ちたい、という彼女の感情に嘘は無い。その点で言えば、彼女の叔父はナルバレックに対して一線を引いていた。その方が賢明だと考えていたからだ。それが短命の要因になるとは彼も思ってもみなかったことであろうから、皮肉なものである。「それで、ナルバレックはなんと言っていましたか?」ソロモンが話を元に戻す。「しばらく待て。それだけです」「はぁ……命令したときは急ぐように言っておいてこれだからな…ま、それまでのんびりとマルグリッド女史のハーブティーでも味あわせてもらおうかな」「はい、かしこまりました」思いもかけずお茶会が始まり、志貴は楽しそうに準備するマルグリッドの様子を見ながら、日本に残してきた紅茶を煎れるのが趣味の女性のことを思い出していた。カップが暖まった頃に、ナルバレックが執務室奥から出てきた。多忙とそれによる疲れのあまり頭の中も良い具合に暖まっているようだ。つかつかとソファに座る全員から見える位置に立つ。格好はマルグリッドのようなスーツ姿ではなく、黒のスーツズボンに、下と同じく黒の薄手のネックの長袖という活動的かつ質素なものであった。胸元にアクセサリーの類は無い。マルグリッドが紅茶の準備を黙々と続けているのを良しとしつつ、ゼフィールに目を遣る。「来たか。例の件はどうなった」「後日、報告書を提出します」「よろしい」普段は風貌も会話も奔放なゼフィールとは思えない口振りと、ナルバレックという前々から名前だけは耳に聞く女性の高圧的な態度に志貴は驚いていた。「…遠野志貴だな」突然、座っている自分が名指しされ、心が浮き足立つ。「あ、はい!」「あ、はいらん。私の前では必要最低限だけのことを喋ろ。二度は言わん。それともう少しイタリア語の発音を練習しろ。耳障りだ」これは彼女なりの人間の振り分け方の一つだ。自分がそうしろと言ってその通りにする者には上司と部下の関係を。高圧的な態度に憤慨する者には侮蔑を。彼女にとってはその二種類だけで十分だった。志貴にわざわざ日本語で言葉を返したのも、相手を挑発する意味がある。それでも志貴は相手に合わせようと、イタリア語で謝罪と了承の意味の言葉を口にしている。それをナルバレックは鼻と目で笑うと、上座と思われる先ほどから空いていたソファに腕を組んで座り込んだ。志貴はどうやら前者に振り分けられたようだった。マルグリッドが十分に暖まった人数分のティーカップに、甘みが鼻腔に残る紅茶を注ぐ。飲み易さよりも、香によって疲れを取る意味合いが強いようだ。彼女が紅茶を煎れ終わるのを見届けたナルバレックは、例の書類を、と一言告げる。マルグリッドは自分のテーブルの引き出しから重要と銘打たれた封筒を取り出し、それをナルバレックに渡すと、自分もソファに座った。それぞれの席位置をまとめると、上座のナルバレックから見て手前から順に、左手のソファにマルグリッド、シエル、志貴。右手にソロモン、ゼフィール。以上が席位置である。「さて、これからの仕事については後にしよう。私も流石に疲れた」それをナルバレックの了承と正しく解したマルグリッドが、全員に紅茶を薦める。「貴方が疲れたなどと言うのは珍しいですね、ナルバレック」ソロモンが紅茶の味とティーカップの価値を目線で確かめながら彼女に毒づく。毒には毒を持って返す。それが彼女だとわかっていながらの会話の口火の切り方であった。「私はお前のように無駄なことに避ける時間は無いのだよ」「その割にはカップを毎度毎度買い換えてるじゃないか。それも上等のね」自分が持っているカップをナルバレックに掲げながら、ソロモンが返す。「貴重な休憩の時間に使うものだからな、無駄ではない」ナルバレックにこうして軽口を叩けるのは、ソロモンのように自信と能力が彼女に匹敵する者だけである。ゼフィールはナルバレックに必要以上の会話を求めないため、ソロモンのように振る舞うつもりはない。会話があまり続かないながらも、紅茶が雰囲気を和らげなものにしていた。そんな時間が10分ほど続いてから、最初に紅茶を飲み終えたナルバレックが口を開いた。「そろそろ本題に入るぞ。お前達にはしばらくローマに飛び周る卑しいイナゴどもの相手をしてもらいたい」彼女がソロモンに先ほどの封筒を渡すと、命令の内容にシエルが質問をする。「イナゴとは具体的に何を指しているんですか?」「お前がイナゴだと思うものだ」答えになっていないようであるが、これは即ち、お前達に任せるという意味である。埋葬機関の者にとってはそれが最大限に力を出せる命令でもある。「まぁ、この教皇庁の混乱を見て何らかのアクションを起こす連中はいるだろうが…今はその混乱を収拾するのが先決だろう」「いや、内部的な混乱は既に目処がついている。今回の事件は確かに予定外ではある。であればこそ、イナゴどもを呼び寄せるだけの信憑性が出る。これを利用しない手はない」無論、嘘である。彼女にとってこれが予定外のことであるはずがないのだ。サンバルツォに教皇庁の主要メンバーを皆殺しにするように仕向けたのを推測できない者はここにはいない。しかし、彼女はそれすらも承知の上で嘘を言っている。逆らえるはずが無いと考えているからだ。なにより、イナゴの中に死徒も含まれている。埋葬機関の存在意義の一つがそれである以上、この命令に逆らうなどというリスクを負う必要性など感じない。群れるのを嫌い、孤高を最上とし、己の命題のみを追求する。それが彼女の埋葬機関のメンバーに対する認識である。それに反しない限り、彼らが反逆することは有り得ない。そう踏んでいるのだ。その証拠に、一同がその命令についてただ無言でいる。承諾したということだ。その様子に満足したナルバレックはマルグリッドに紅茶の二杯目を注れるように告げた。「志貴は私たちと行動する、ということでよろしいのですか?」シエルが誰も触れていなかったその点について言及する。「いや、彼にはここに残ってもらう。手続きもあるんでな」ナルバレックのその言葉に、シエルはただ、そうですか、とだけ返事をした。「シエル、ビエラちゃんのこと頼むよ」「はい……わかりました」その様子を見ていたソロモンが出し抜けに立ち上がる。すると、ソファから離れた場所で腕を横にかざした。その空間に三次元的というより二次元的に線が引かれ、そこから一匹の白銀の毛並みが美しい大型犬が出てきた。パウロという、ソロモンの使い魔だ。「すまんがこいつの世話も頼む。久しくこちらの世界に出ていないから体が鈍っているはずだしな」通常、この使い魔は別空間にて『保存』されている。それは実にソロモンらしいやり方で、この美しき獣の質を落とさないようにそうしているのだ。今回、外の世界に出したのには、今言ったのとは別の理由があるが、彼はそれについてナルバレックに教える気は無かった。「世話、といっても餌などをやる必要はない。ただ、志貴がこいつと一緒に行動していれば良い。それだけでもこちらの世界の空気に慣れるには十分だからな。本来ならば私が連れて歩くべきだろうが、何分、目立ってしまうのでね」志貴はこの息が詰まるような場所に見知った顔も無く残されるのに寂しさを覚えていたから、それを承諾した。他の者は知らないが、先ほどもいったように、この犬は『保存』されているのである。体が鈍ることは無いのだ。でなければ咄嗟の事態に使い物にならない。これは彼の気遣いではない。ただ彼の不安がこういった行動に出ているのだ。ナルバレックが何をするかわからない、という不安が……ナルバレックもそれに気づいている様子であったが、ソロモンの気まぐれには慣れていたためにすぐにどうでもよくなったようで、ただ黙々と紅茶を飲んでいた。しばらくして紅茶を飲み終わったゼフィールが立ち上がり、出発の号を出した。「それでは元気にしていてくださいね」志貴にそういってからシエルも外に出ていった。最後にソロモンが外に出ようとしたところで、ナルバレックを一瞥する。「どうした?」「いや、なんでもない」やはりおかしい。ソロモンはそう思う。ナルバレックに余裕がありすぎるのだ。普段ならば紅茶を仲間と一緒に飲むなどということは絶対にしないし、パウロを志貴に預けたように、自分が余計なことをすればなんらかのリアクションをする。そういった普段とは違う行動が、彼にナルバレックに対する疑惑を深める結果となっているのに、ナルバレックは気づいていない。いや、気づいているのだろうが、気にしていないのだ。それ程に余裕があるということになる。そんなことを考えながらも、ソロモンは部屋を出て扉を閉める以外にできることは無かった。ソロモン達が去った後、志貴はパウロを懐けようとしていた。犬というより狼に近い風貌が恐怖心をそそるが、元々、彼はそういった獣が嫌いではない。人間に何かを媚びるわけでもなく、ただ受け容れながらも、純粋な本能と強さを漂わせ続ける目つき。じっとそれを見つめた後、喉元に触れながら背中を撫でた。どうやら、志貴はパウロに嫌悪感を示されずに済んだようだ。それはソロモンの命令によるところも大きくはあったが…。「マルグリッド。後のことは任せる。私は少し外の空気を吸ってくる」「はい、かしこまりました。お気をつけて」ナルバレックが入り口脇に引っかけてあるスーツジャケットと帽子を被り、退室した。マルグリッドが執務用の席に着く。すると、志貴を手招きしたので、彼はパウロの背中をさする手を止めて机の前に立った。「さて、志貴さん」「はい?」マルグリッドが引き出しから、厚さ三センチほどの書類の束を出し、それをボンと机に置いた。志貴がそれを手にとって一枚一枚確認する。それぞれ二枚組で、一つはテンプレート。もう一つは白紙であった。それが大体二十組ほどある。「それ、3時間後までに書き上げてください。もちろん、イタリア語で」つまりはテンプレートを参考にこの手続き用と思われる書類に筆記しろということだ。志貴は小さく唸りながらも、それに承諾するしかなかった。「ソロモン、なんでパウロを志貴に預けた」ゼフィールが先ほど通ってきた地下道を歩きながらソロモンに問い掛ける。「ふん、今まではナルバレックの言うことを聞いてる方が楽だったがな、流石に奴の手の上にいるとは知らずに踊るのは性に合わない。だから監視役としてパウロを使ったまでだ」ゼフィールはその答えは想像がついていたが、わざわざ聞いたのには理由があった。「なんで素直に『志貴のことが心配だ』って言えないんだろうな。なぁ、シエル?」「なっ!?私はあくまで自分にとって有益だと判断したからだなぁ…」ソロモンをからかうためならなんでも利用するゼフィールと、それに一々引っかかるソロモンの様子を見ていて、シエルはただ笑っていた。2002年12月9日、初稿