石の絨毯がステージへと続いている。だけど、それも座興。私の求める劇のチケットは、別にある。それは喜劇なのか、それとも……。第九幕「シェイクスピアは火の中で眠る」『頑丈なモルタル補強の秘訣は少量の汗と大量の血。それに少々の涙』とはよく言ったもので、なるほど、ローマ市内の石造りのものはすべからく頑丈といえる。そういった感慨にふけっているかどうかは知れないが、一人の女性が壁の感触を背中で確かめるようにしながら、人を待っている。陽光には赤い染みが混じりはじめているが、沈む様子はまだ無い。女性の待っている場所のすぐ前には大きな通りがあり、仕事から家へと帰宅する者、くたびれた帽子の被りを変えたりしながらお抱えの娼婦の元へと向かう者、それぞれ様々に足を動かしていた。その中の一つが、女性の方へ向く。女性が地面に這わせていた視線を上げると、それは目的の男性、サンヴァルツォだった。「予定時間ぴったり、だな」女性が、マラソンを終えた選手に監督がタイムを告げるように、腕時計を確認しながら言う。「通信手段が使えない以上、時間厳守は基本だ……そうでしたね、ナルバレック」生徒が教師に注意されたことを成し遂げたときの言い方に似ているように、女性……ナルバレックには感じられた。「そう突っかかるな。別に皮肉で言ってるわけではない」普段からは出そうにも無い、相手に誤解を与えないように、という気遣いを見せる。「さて、本部の方はマルグリッドに任せてある。時間はたっぷりだ。川沿いを歩きながら話すぞ」彼女の「少し外に出てくる」は、マルグリッドに対して一時的に本部を任せることと同義である。本来であれば、ナルバレックは常時、埋葬機関に居るべきではあるのだが、事態の見切りがつけば実質的にはなんら急務は無くなり、彼女の仕事の後詰めをマルグリッドが行うことになる。流石に、ローマ市外に出るということはできないのではあるが。ナルバレックが、意識的に帽子の鍔を指先で下げ、通りとは反対側にある下水道にも使われている川がある方へと歩き出し、それにサンヴァルツォも倣った。川沿いの道を、川に近い方をサンヴァルツォが歩き、その横をナルバレックが歩いている。「昨日はご苦労だった。しばらくは他の者のように、自身の判断で行動してくれれば良い」昨日とは、報道によれば教皇庁でのテロが行われた日だ。ソロモンの予想通り、それの実行犯はサンヴァルツォだったようだ。「わかりました。今日はとりあえず、ビエラが心配なもので、家に帰らせてもらいますよ」サンヴァルツォは川の水面(みなも)に、養子であるビエラの顔を浮かべ、口元を綻ばせる。「……遠野志貴に関してだが……どうだ?ソロモンの報告どおり、使えそうなのか」サンヴァルツォは川から視線をナルバレックの方に上げる。「彼は正に『特別』ですよ。的確に使えば、あらゆる任務に投入可能です」そう言うサンヴァルツォにナルバレックが流し目で返す。笑っているようにも見える。「なんだ、私が『的確に扱えない』とでも言いたいのか?」「いえ、それだけ危険な存在でもある、ということですよ。我々が先に確保できて良かった」まったくだ、とナルバレックが同意する。「魔術協会の連中にでも横取りされたら、たまったものではないし、最悪、死徒にでもされていたら、目も当てられん。今回ばかりは、シエルのおかげだな」それを聞いて、サンヴァルツォが軽く息を口から吹き出す。「おやおや、あれだけのことをしておいて、よく言いますね」シエルに対する、拷問の数々を実際に行っていたのはナルバレック本人である。「それを言うな……もうあれをできないのだと思うだけで、ストレスが溜まる」殺しても殺しても生き返る愛玩動物。それが彼女のシエルという人間に対する評価であっただけに、実に残念なことなのだろう。「しかし、ロアから授かった彼女の魔術知識は未だ健在です。これを利用できるだけでも、良しとしましょう」埋葬機関のメンバーは、その成り立ち故に、魔術に精通しているものはいない。シエル以外には、異端であるそれに知識として以外に実際に手を出したものはいない。ソロモンは死徒ではあるが、魔術的なものを一切行使したことはなく、ただ単に任務などで相手が使用したものを目にするだけである。だが、シエルは違う。何世代にも渡って繰り返されたロアの魂の転生。それと同時に、魔術は知識に経験を付随する形で洗練され、それは転生体に反映される。そして、最後の転生対象者、それがシエルなのだ。「正にロアの遺産だ。知識とは一種の永遠だ。確立された知識が変わることは先ず無い。残り続ける。皮肉なものだな。奴は、知らず知らずの内に永遠を実現したわけだ」「もっとも、それも彼女がその知識を誰かに伝えれば、の話ですがね。彼女にそれについて形に残すように命令は出してあるんでしたか」「ああ、もう既に取りかからせてある。任務優先、ではあるがな」シエルはその知識を本の執筆という形で行っており、任務が無いときは1日の5時間近くをそれに当てている。世に出ることは永遠に無かったその本は、後に埋葬機関唯一の魔術知識のソースとして使われることになる。「任務といえば、未だに死徒がこの街に現われた気配が無いですね」教皇庁での事件を死徒が知り得ないわけがないにも関わらず、彼らが全く進入してこないのは、蛇が獲物に噛み付く前の静けさにも似た不気味さがある。「死徒も馬鹿ではない……奴等には二種類いる。目的のために虎視耽々と機会を狙う者。そして、目的も何も無い奴だ。後者は今回のことなど関係無いだろう。だが、明日の夜頃にはそろそろ前者がお目見えしてもおかしくない。我々が休めるのは今日だけだろう」やれやれ、とサンヴァルツォが不満と自信を見せつけるようにしてから、言葉を続けた。「さて、これからどうしますか、ナルバレック」「む……実はな、久々に外出したものだから、何をするのか考えてもいない」かれこれ数えて、二ヶ月ぶりの外出である。埋葬機関という牢屋に投獄されているといってもおかしくない。中庭での運動ができる分、本物の囚人の方が健康には良さそうだ。「それでは、ウチで食事でもどうですか?これからは家にもなかなか帰れませんので、今日の内に食料を使い切りたいんですよ」「なんだ、いまどき保存の利くものも買ってないのか?」「いえ……ビエラにはできるだけ新鮮なモノを食べさせてあげたいので……」彼の言葉には、ろくなものを食べていないナルバレックに対する皮肉など全くなく、ただ、ビエラに対する愛情だけが伝わってくる。「なるほど……それでは、ご馳走になろうか。そこらの安い店で食べるよりは味が良さそうだからな」彼女が他人の家に上がる、ということはまず有り得ない。交友関係など無いに等しいし、第一、先ほど書いたように、埋葬機関から出ることすら難しいのだから。そうして、彼らはサンヴァルツォの家へと向かうことになった。同日同時刻、志貴はひたすらに文章を書いていた。本人は既に、文章というより文字の羅列としてしか認識していない様子である。「マルグリッドさ〜ん、ここわからないんですけど……ここ」「ああ、ここはこれとは別のテンプレートを参考にしてですね……」こんな調子で、かれこれ二時間が経とうとしている。ノルマの四分の三は消化しているので、締切時刻である三時間には十分に間に合う計算だ。「これが終ったら夕飯ですから、頑張ってください」「はい、わかりました……」呑気に寝ている、ソロモンの置き土産である犬のパウロを横目で疎んじつつも、文書作成に意識を戻す志貴であった。ナルバレックとサンヴァルツォが合流する少し前には、既にシエルとソロモン、それにゼフィールの三名はソロモンの部屋に到着していた。シエルがソロモンのご機嫌取りに大量に持ってきた煎餅を肴にして、三人で多忙だった一日の慰労を兼ねて、以前からソロモンが買ってあった緑茶を飲んでいた。日本人というのは外国の文化に対して神格化している部分があり、そこに日本的なモノが入り込むと違和感を覚えるようだが、現実にはそんなことはお構い無しに日本文化は各国に流出・浸透している。良い例がスシ・バーだろうか。「本部の方にも、サンはいない様子でしたね……ナルバレックの指示でしょうか」シエルがお茶を継ぎ足しながら言うと、ソロモンが煎餅を口に運ぶのを中断する。「俺達に会わせたくない、という考えはナルバレックにはないと思うぞ。単に、サンがしばらくは埋葬機関に戻れないだけだ」いわゆる、贖罪期間と呼ばれるものらしい。埋葬機関に所属している者で、任務に際して人殺しなどを行った者は一定期間、教会の建物に立ち入ることを禁じられる。表向きは「任務といえど罪」という名目で作られたこの規則だが、実の所は外国や死徒の工作員などに任務中に入れ替わられるなどして、埋葬機関に進入されないようにするというのが理由である。「ああ、そういえばそうでしたね……では、誰が彼と連絡を取っているんですか?」シエルの続けざまの質問にソロモンが少しむっとしたのを見て取ったゼフィールが代わりに答える。「ナルバレック本人……だろうな」シエルがその答えに驚き、急須から注いでいるお茶を少し零した。「あの万年本部詰めのナルバレックがですかっ!?」シエルにしてみればナルバレックという人物は、埋葬機関に常にいる人間という認識でしかない。シエルの反応を見て機嫌を直したソロモンが相づちを打ってから会話を繋ぐ。「あの熱心さは俺も初めて見る。いったい何を企んでいるんだかな」言ってから、真剣に悩み始めたソロモンに、ゼフィールが苦笑の吐息を投げつける。「いや、恐らく何も企んでいないだろう。新しい玩具を見つけたのと変わらん」『玩具』という単語に嫌な記憶を呼び起こされたシエルに、ソロモンが駄目押しの台詞を吐く。「シエルに代わる玩具、ということか。しかし、そんなに興味深い人間か?」ゼフィールの方を見ながら、空中で指を漂わせている。サンヴァルツォの特徴を説明しようとして、何も見つからないといったところだろう。「ナルバレックの趣味を理解しようとするだけ無駄というものだろ」「……それもそうだな」そう言って結論を出した二人だったが、ソロモンがシエルに「まだお茶が入らんのか」と聞いた途端、彼女の怒りが頂点に達したのであった。ビエラが通っている学校の広場。広場といっても、狭いながらも緑溢れる景観が保たれている。そこにある、いつもサンヴァルツォがビエラと落ち合うベンチで、サンヴァルツォとナルバレックが座っている。「午後4時……か。もうそろそろ学校が終ってもおかしくないんですけどね」腕時計を確認し、サンヴァルツォが学校の玄関を見て、呟く。「すいません、こんなことに付き合わせてしまって」「構わん。食事といっても、夕飯時にはまだ早いからな。それに、こうして外でベンチに座りながら新鮮な空気を吸うというのも久しぶりで、悪くない」なら良いんですが、とサンが言おうとしたところで、彼の目にビエラが玄関から出てくるのが目に入った。立ち上がると、ビエラに声をかけながら走っていく。「子供……か」ナルバレックは、サンの様子を見て、呆けたようにそう言った。彼女が子供時代に最初に教えられたのは、ナルバレックという名前に背負わされた、罪の重さである。初代のナルバレックはこの世に存在するあらゆる罪を憎み、そして人間の原罪をも憎んだ。その結果、自身の能力を使って人類を全て狩り尽くそうとしたが、埋葬機関を設立することになる者達によって殺されたという。その罪の贖いとして、代々に渡り罪を継承し、埋葬機関の責任者たることを義務づけられた。この責任が教皇に委ねられることは一切無く、命令で責任が生じない、という、教会にとっては理想的な形が完成した。いわば、罪の代わり身である。今代のナルバレックはそれを知り、そんなくだらないことを自分の手で終らせるために、死徒とその元である真祖を滅び尽くすことを決心した。その目的以外のことは目にも留めず、それでいて大局的に物事を見、今までのナルバレックには無い程の働き振りで教会を魅せしめている。それは、贖罪そのものがくだらないことだと考えた結果だった。そんな彼女が、自分の罪で両親を亡くした子供に贖いを続けるサンヴァルツォに無意識に惹かれたのは、必然であったのかもしれない。サンヴァルツォ達から目を逸らし、背中をベンチにゆったりと預けて空を見上げる。首筋まで伸ばした金というより白に近い髪の毛が、頬をくすぐる。自分の子供時代を思い出しながら、くだらないことの繰り返しを自分を一笑したとき、こんにちわ、という子供の声がすぐ傍で聞こえた。目線を落すと、サンヴァルツォとビエラが目の前に立っていた。どうやら、ビエラがナルバレックに挨拶をしたらしい。「あ、ああ。こんにちわ、ビエラ」愉悦以外で微笑んだことなど一度も無い顔のそっけない表情で返事をしている自分ががどんな風に少女に受け取られていることだろうか。そんなことを少女の瞳を見ながら考えていた。善悪など意味も存在しない、純粋な瞳。それは、この少女の年頃を考えると希有であった。「子供がお好きなんで?」サンヴァルツォは、ナルバレックがビエラを普段見ない表情で見ているのに、気づいた。「いや、珍しいものを見たんでな」「穴蔵に子供はいませんからね」その冗談は全くに的外れで、ナルバレックの考えていたことに彼が気づいていない証拠だった。「穴蔵、というのは本部のことか?」「冗談を解説させるとは、貴方も嫌な人だ」「承知の上だ」そう言ってから、二人が笑う。ナルバレックの笑い方は、一般人のそれとは違って、愉快というよりは、それについて卑下したものである。「サン、この人は誰?」ビエラがサンヴァルツォの着ているジャケットの裾を引っ張る。「ああ、ビエラは会うのは初めてだったね。この人はナルバレック。私の上司だよ」「サンと同じで、長い名前なんだね……ねぇ、ナルバって呼んでも良い?」ビエラがナルバレックにそう聞いたので、サンヴァルツォは思わず笑ってしまった。「こりゃいい、たしかに、その方が女性らしい響きだ」一般的に、イタリアでは名前の最後が男性はOで終る場合多く、女性はAで終わる場合が多い。良い例がマリオとマリアで、MARIOとMARIAは最後の語がOかAかの違いしかないが、男性と女性で完全に使い分けられる名前である。勿論、例外も多いので一概には言えないのだが。「別に構わん。好きに呼べば良い」子供は新鮮な驚きを大人に与える何かを常に考えているのではないだろうか。そんなことを考えている自分自身に新鮮さを感じつつ、ナルバレックは席を立つ。それを見たサンヴァルツォがビエラの手を引きながら、率先して歩き出した。三人がサンヴァルツォの部屋があるアパートに着いた。一階のロビーに入ると、入り口脇の方向にある管理人室でもあるソロモンの部屋から大きな物音と怒声と何やら制止らしい声が断続的に響いてきた。「はて、今日は誰かの降誕祭だったか?」「なぜそう思うんですか」「下賎な者をゴミと一緒に掃除する必要があるだろ」ナルバレックが言い終わると、丁度、何かがドアから突き出た。丈夫そうなドアを突き破らんばかりの衝撃だったようで、蝶番が悲鳴を立てている。シエルが武器に使用している、投擲用の剣……黒鍵である。「どうやらそんなことを言ってる場合では無さそうですよ」サンヴァルツォは興味が無さそうなナルバレックにビエラを預けて、自分は管理人室へと突入していった。「あなたがたは、いったい人をなんだと思ってるんですかぁっ!」「シエル!いや、シエル君、止めろ!」「そうだ、そればかりは洒落にならん!!」先ごろの会話に端を発したシエルの怒りは、壮絶な言い合いから黒鍵の濫投に発展し、今に至っては第七聖典と呼ばれる人一人分ほどの大きさもあるパイルバンカーの先端をソロモンとゼフィールに向るという事態にまでなっていた。当初、ただ単にシエルをからかっていた二人であったが、彼女のあまりのテンションの高ぶりに段々と着いていけなくなり、今となっては攻撃に移るという考えに至れないために、引き倒した本棚の影に伏せてシエルの説得を繰り返すばかりだった。そんな二人の位置から後ろにあるドアが……蝶番ごと倒れてきた。どうやら、誰かがドアを開けようとしたために、蝶番が最後の力を使い果たしたためのようだった。「何の騒ぎですか、これは!」ソロモンとゼフィールが、その声が誰かと思いながらも顔をそちらに振り向かせると、そこにはサンヴァルツォが立っていた。「おお、サンか。無事だったようだな」「久しぶりだな、俺のこと覚えてるか!?」二人とも、呑気にサンヴァルツォに挨拶をする。「そこ!そこの二人!無視しようったってそうはいかないんですから!!」第七聖典の撃鉄をガチャッという音と共に起こし、最後の攻撃、とばかりに構える。「シ、シエル!そんなものをここで使ってはいけません!!それに、今ここにはナルバレックが来てるんですよ!」「ナルバレックがなんだってんですか!大体、あの女が―――……えっ?」シエルが、我に返って第七聖典をパッと放すと、等身大の銅像でも倒したときのような音と衝撃が床から発つ。全員の視線を集めた入り口には、ナルバレックその人が、モデルルームの中でも眺めるようにしながら姿勢良くサンヴァルツォの隣に立っていた。「やぁ、シエル……先程会ったばかりでこんな台詞は何だが……元気だな」愉快そうに唇の端を上げながら言っている表情には、不快感も十分に見て取れた。「セ、セブン!私の部屋に戻っていなさい!」シエルがそう言うと、第七聖典が両手両足に指の代わりに蹄がついている少女に代わる。第七聖典に宿る精霊で、自身を依代(よりしろ)にして第七聖典を呼び出すことができる。どうやら、先程落されたときに体をしたたかに打ったようで、うめき声を出している。「マスタ〜ぁ……この扱いはあんまりですぅ……」「良いから早く行きなさい!」言うが早いか、セブンを蹴り上げる。吹き飛ばされたセブンが、悲鳴を上げながらも壁にぶつかる直前に体を転移させた。それを確認して、シエルがほっとため息をつく。「随分と第七聖典を改造したのだな?私は君にあれを預けたのであって、あそこまでしていいなどとは言った覚えはないんだが」「い、いえ!あれはあくまで任務を遂行する上で仕方なく……」「それに、どうやら濫用する癖までついているようだ……なんなら、また殺してあげようか」「!!!!!」言い訳の余地も無いし、第一、ナルバレックには取りつく島も無い。当然と言えば当然の結果と言える。そこで、ゼフィールが口を挟んだ。「そんなことよりも、ナルバレックこそ、またなんでこんな所に?」「サンヴァルツォに夕飯の招待を受けたんだ。そうしたら貴様らがこういう馬鹿な騒ぎをしていたわけでな」ソロモンがそれを聞いて、会話に棹をさした。「ああ、それは良い。シエルのことは私たちに任せて、ナルバレックは気にしないでサンの部屋に行ってくれ」それを聞いて、途端に興味を無くしたらしく、ふん、と一笑してナルバレックは外に出ていった。「それでは私も行きますので……シエルも災難だったな」サンヴァルツォもナルバレックに続く形で部屋を出る。「なんとかやり過ごしたな」「むしろ、過ぎごされた気がしないでもないがな」ソロモンとゼフィールが順々に安堵の言葉を漏らす。騒ぎの張本人であるシエルは腰が抜けて床にへたり込んでいた。アパートの四階にあるサンヴァルツォの部屋。居間と寝室、それにシャワー室だけの1LD構造である。キッチンは居間と同じ部屋にある。このアパートの部屋は全てこの構造で、一人暮らしには問題が無いが、ビエラと二人暮らしとなると少し手狭さを感じずにはいられない。部屋についてのナルバレックの感想は次の通り。「悪くない部屋だな。眺めも良い」部屋の窓からは、アパート正面を横切る石の街路が見える。学校から帰った子供達が路地で車に注意しながら遊ぶ姿も見え、こういった風景は世界共通であるように思える。部屋の様子を確認しながらもテーブルの席についたナルバレックに、サンヴァルツォが声をかける。「今、食事の用意をしますのでしばらく待っていてください」「わかった……ところで、ここは禁煙か?」ポケットから細長い煙草ケースを取り出して、それをサンヴァルツォに見せる。「いえ、誰も吸わないだけで、別段、禁煙というわけではありません。灰皿ならありますので、どうぞ」流し台の下に入っている、使わなくなって何年も経った灰皿を取り出す。「悪いな」目の前にある、楕円形で細長いテーブルの上にガラス製の灰皿が置かれる。慣れた手つきでケースの中から一本だけ取り出し、ケースだけテーブルに置く。口に加えた煙草にペン型のライターで火を点けると、細身だがしっかりと葉が詰まった煙草から煙りが吹き出る。紙巻煙草ではあるが、かなりの上物らしい。木製の椅子の軽い喚きを無視して、体重を預けると、しばらく……煙草が半分の長さまで無くなるまで……数時間振りの相棒の味を堪能していた。ビエラはというと、帰って来てからずっと寝室にある机に向かって課題をやっていた。学校では友達がいるようだが、帰宅してから遊ぶ程の仲の友達はいないらしい。「あの年頃にしては、随分と大人しいな」4メートル程離れた場所で包丁の腕を振るっているサンヴァルツォに聞こえる様に言う。「ああ、ビエラのことですか」「そうだ」手元で切り分けた材料を一通り鍋に放り込むと、彼はナルバレックの斜向いの席に座り、小声で話を続けた。「あの子は前からああですからね。別にどうとも思ってませんよ。ただ……」「ただ?」話が興味深い方向に傾いているのに気づいた彼女は、とりあえず煙草の火を消した。「種類のわからない蝶が蛹から孵(かえ)る前のような印象を受けます」それはさぞ好奇心を刺激する状況であろう。サンヴァルツォの瞳は静かに光の波を漂わせてる。「ほう、お前に詩人の真似事の趣味があるとはな」これで、蝶ではなくて天使などとでも表現していたら、ナルバレックは驚きよりも笑いを表情に出したことだろう。「いえ、本心ですよ。今にも何処かに飛び立っていきそうなんです」両肘をテーブルに突き、よく子供が手遊びで表現するようにして、蝶の羽を羽ばたかせてみせる。「心配か?ならば紐に繋いでおけばいい」「そんなことをするくらいなら、いっそ羽を毟り取りますよ」両手をくっつけていた親指の付け根をパッと離して、惨酷な描写を愉快にしてみせる。ナルバレックは、彼の口からそういった台詞が出るとは思っていなかった。だが、それは侮蔑や驚きにはならず、むしろ喜ばせ、彼女の中のコンプレッサーを動かす。「これはこれは……くっくっく……それで、お前は羽の無くなった蝶などに愛情を持てるのか?」「ええ」「そうかそうか……お前は楽しい奴だよ、サンヴァルツォ」新しい煙草に手をつけつつ、彼女にはこれがサンヴァルツォの人となり全てを表わしているように思えた。優しいようでいて、矛盾しない形で支配欲が強くある。故に、他人の罪をも支配しようとする。それが善いだとか悪いだとか、そんなものは傍にいればどうでも良くなるだろう。罪というものの価値そのものを捨て去らせてくれるような存在として彼女が彼を再認識したのは、このときだった。「終った!終わりましたっ!」「頑張りましたね、志貴さん。それでは、夕食にしましょうか」シエル達がソロモンの怒声をBGMに部屋の後片付けをしていた頃、時計は午後五時手前というところで、志貴の書類執筆が終了した。マルグリッドが念のために書類のチェックをする。「はい、OKです」「ふぅ……終った終った」志貴が椅子からずり落ちそうな格好になって、安堵する。マルグリッドはその様子を同じテーブルから横目で見つつ、電話を内線に繋いだ。「執務室です……ええ、ナルバレック様はいませんので……ええ、二人分で……はい、AとCでお願いします……はい……はい、それではお願いします」かちゃりと音を発てて受話器を、よくある白いオフィス用の電話機に置く。「どこにかけてたんですか?」志貴の問いに、紐付きの眼鏡を外して答える。「食堂です。私と志貴さんの料理を頼みました。私を含めて、大体の職員は食堂で食事を取るんですが、今はナルバレック様がいませんからね。ここを離れるわけにはいかないんです」志貴は姿勢を元に戻しながら、どんな食事が用意されるのか、と想像を逞しくする。「それで、食事を食べた後はどうするんですか?」「そうですね……ナルバレック様に書類以外の指示は受けてませんから……あの方が帰られるまですることはありません。メンバー用の部屋に案内させますから、今日はそこで休んでください」「ああ、それじゃあ寝るまでここにいても良いですか?部屋で犬と遊んでるだけじゃつまらないし」ちらりと後ろのソファで寝転んでいる無礼な犬を見遣りながら、マルグリッドを伺う。「ええ、勿論。仕事もありますけど、話し相手ぐらいにはなれますよ」志貴がどういうつもりで言ったのかは知らないが、マルグリッドは南部育ちの女性らしく、これを相手の自分に対する誘いだと受け取っており、それが志貴の人生経験に一枚の消えない層を作り上げることになる。部屋の片付けを済ませたシエル達三人は、テーブルでお茶を飲みながら疲れを癒していた。といっても、ドアはもう使い物にならないし、壁に残った黒鍵の傷痕は生々しい。そんなときに、ソロモンが気づいたことを口にした。「ところでシエル……一応、ビエラの様子を見て来るべきではないか?」「え〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」シエルの嫌悪感溢れる反応も当然であったが、ソロモンの提案も当然であった。「今、あの部屋にはナルバレックもいるんですよ……」「とはいえ、志貴に頼まれただろうに。ビエラのことを」ソロモンの台詞を聞いて悩み始めたシエルを見て、ソロモンとゼフィールは小声で話しを始めた。「俺は『行かない』に夕食をかけるぞ」「ふむ、乗った。私は『それでも行く』だ」夕飯の代金を誰が持つか、という賭けである。そうとは知らず、シエルは悩み続けていた。数十分後、部屋を出ていったシエルを見送ったソロモンは一人、勝利の余韻に浸っていた。「ふっ……私の勝ちだな」「まぁいいさ。任務手当てが出て、ココは暖かいからな」ゼフィールがぽんぽんと胸の辺りを叩いてみせる。「なんだ、負け惜しみか?」「そう思いたければそう思えば良いさな」そう言って、茶を煽った。四階へと階段を上る足が重いことを、シエルは実感していた。先程、あれだけの醜態を見せた相手に、しかも普段から苦手としている人物に会わざるをえないのだから、当然と言えば当然である。部屋の前にたどり着くと、しばらくその前に立ち尽くしていた。それでも自身を奮い立たせてドアをノックする。ほどなくして、ドアが開いた。「はい……ああ、シエル。何か御用ですか?」「いえ、志貴がビエラちゃんのことを心配してましたから、せめて顔ぐらいは見てこようと思いまして」「それはそれは……さぁさぁ、入ってください」居間に通されると、ボレッティのラベルが貼られたビールをお通しと一緒に飲んでいるナルバレックがいた。吸いかけの煙草も灰皿に置かれており、すっかりくつろいでいる様子が見て取れる。「シエル、何か用かね、ん?」嫌みたらしいと取られるような表情と口調でシエルに声をかける。「い、いえ。ちょっとビエラちゃんに用事がありまして」「そうか、ならば早く用事を済ますと良い……ほら、どうした?」ハラワタが煮えくり返るのを必死で耐えながらも、サンヴァルツォにビエラの居場所を教えて貰い、寝室へと入っていった。「ビエラちゃん、こんばんわ〜」「あ、シエルさん。こんばんわ」最初、シエルが部屋に入ったとき、暗い部屋の中で何をしているのかわからなかったが、よく見ると、窓際でビエラが空を見ているのがわかった。「志貴が心配してましたんで、それで様子を見に来たんですよ」「志貴のお兄ちゃん、いないの?」「ええ、明日には多分帰ってこれると思うんですけど……」居間にいるナルバレックを見るようにして、ドアの方へ視線を送る。「それよりも、もうすぐ夕食ができるみたいですよ」「はい、わかりました」「それじゃね、ビエラちゃん」シエルは寝室から出ると足早に玄関へと向かい、挨拶もそこそこに部屋を出ていった。「あ〜……折角だから、一緒に夕飯でもどうかと思ってたんですけどねぇ」サンヴァルツォが食器を並べながら、残念そうに表情を曇らせる。「それは私が遠慮したいし、奴も同じ答えだろうさ」サンヴァルツォはナルバレックの言い分に納得しながらも、苦笑いを浮かべていた。「お〜、無事に帰ってこれたな」「ナルバレックの機嫌は悪くないみたいだな」帰ってきたシエルに対して、ゼフィールとソロモンが好き勝手な感想を述べる。「……もう怒る気力もありません」「それじゃあ食事に出るとするか」彼らが帰ってきたのは、午前三時であり、それというのもゼフィールが少しだけということで誘ったバーに残りの二人を延々と付き合わせたからである。ソロモンは聖職者としての意識が高かったので飲酒はせずに、淡々とジュースを飲み、それをゼフィールがからかい、その様子をシエルが愉快に見守るというのが、その内容であった。志貴が思いもしない災難に直面していたころ、ナルバレックは一人、埋葬機関へと向かっていた。少し飲み過ぎたとはいえ、十分に許容範囲ではあった。身体的な問題は発生していないが、気分がやたらハイになっていた。石の絨毯がステージへと続いている。だけど、それも座興。私の求める劇のチケットは、別にある。それは喜劇なのか、それとも……。そんなことを考えながら、彼女はこれからの多忙さを忘れるために、煙草に火を点けた。月が満ちる日まで、そう日付は残されていなかった……。2003年1月21日初稿