第五話「Blamen」

 ――彼らは元軍属の四人からなる。それぞれ、Donker(驢馬)、Dog(犬)、Cat(猫)、Chicken(鶏)。生年月日、本名は不明だが、外見年齢は全員が五十を越えている。Blamenというのは蔑称であるため、もし彼らと接触する我らが同志が賢明たらんとするならば、口に乗せるのは控えるべきだ。
 現在、彼らは国粋主義の極右として活動しているが、表立っては動かない。インターポールにもレッド指定で各国への手配書配布を申請済みであるにしても、体裁を整える程度の意味しかないことを覚えておいてもらいたい。
 以下は彼らの特徴を私が報告書とは別にして記述すべきと感じたものを列挙する。重複する点もあるが、これは読み違えを防ぐためと思ってもらいたい。

・Donker……彼が唯一、表立って活動しているメンバーである。偽名ということが確認済みであるが、ミゴエル・コルツォフと名乗っている。ヒューゴー・インダストリィの筆頭株主兼現会長であり、その他、製薬会社の株主としても有名。

・Dog……消息不明。偽造パスポートが使われた形跡のみが私の知るところである。彼の元教え子という人物と接触することに成功。トレース技術に関しては彼を知る他の人物も彼には敵わないとする。他のメンバーと不仲であるという噂を手に入れた段階。

・Cat……海兵隊工作員としてベトナム派兵後、消息不明。それ以前の経歴については別資料を参照のこと。モサドからの情報によれば、麻薬シンジケートと接触しているような節があるが、確認は取れていない。

・Chicken……全く不明である。これについては様々な憶測が可能であるが、恐らく、彼が数多くの同志を屠った人物であろう。

 彼らは我らの過去そのものである。また、彼らもそう信じている。であるからして、彼らに対しては常に尊敬の念を抱くべきである。でなければ、弾丸という名の軽蔑の跡を眉間に刻むことになろう。では、我らと彼らとの相違点とはなんであろうか?それは、現在を基準としているか、過去を基準としているかの違いである。
 イザヤ書の戒めは我らにとっては何の意味もなさない。心せよ。これを読む、我らが同志。――


 ここら辺りは火葬場のような嫌な匂いが立ち込めている。甘いような、辛いような、そんな匂いが、空気の一つ一つに絡みついて、離れない。この路地の一角は、乱暴に建てつけられたコンクリートと木の軋轢が、様々な人が入り込む要素を象徴している。望む望まないに関わらず、そんな軋轢で風を凌がなければ、夢を見ることも、後悔することもできない人たちが、この世界には多すぎるのかもしれなかった。そして夜になれば、その軋轢から頭を出したものたちが、窓から見下ろした路地には溢れるのだろう。
「……ソロモン?」
 ゼフィールは部屋の外、それに階段へと遣っていた気を、危険は無いとして部屋の中のソロモンに戻す。ここを待合場所にしたというDogという男は、なるほど、鼻が効く。先ほど確認した限りでは、窓側は降りるのであればまだしも、登ってくるのは不可能と思われるし、部屋の外に払うべき注意は階段にさえ向けていれば良い。
 ソロモンに声をかけたは良いが返事が無いことに腹を立てたゼフィールは、彼が嫌がることの一つである、背中越しに何をしているか見るという行為に出た。すると、ソロモンは不承不承の顔つきで振りかえる。視線を彼の手元に合わせれば、彼が今まで読んでいた書類の読み取りやすいゴシック体が並べられているのが見て取れた。
「なんだそれ」
「CIAの支局に行ったときに顔なじみに会ってな。彼はこれから会う人物の専従調査員なのさ」
「それで彼からもらった、と」
「そういうことだ」
 ソロモンはそそくさとそれをいつものように、スーツの内側にしまいこもうとする。どう見てもA4サイズで束になるものが収まり切りそうには無いのだが、ソロモンの特技が空間を操ることであることを考えれば、それは造作も無いことだった。ただ、今回ばかりは、そう簡単にしまいこむことはできない。ゼフィールが彼の腕を掴んだからだ。
「お前さん、俺に言うことがあるんじゃないか」
「……なんだ」
 ソロモンは答える前にゼフィールを瞼に力を込めて睨んだ。話があるのなら、先ずは手を放せということなのだろう。しかし、ゼフィールはそうしなかった。
「サンヴァルツォのことだよ。何でこっちに呼ばないんだ」
「それは、あの娘のこともあるしな。在学中は――」
 かつての同僚と、彼の娘であるビエラのことを出すのは、半ば暗黙の了解としてタブーとなっていた。彼らをイタリアに残したままなのは、皆が皆、ソロモンに考えがあるのだろうと思っていたし、彼も話そうとはしなかったからである。しかし一人だけ、ゼフィールだけは、言う機会を伺っていたのだった。
「馬鹿抜かせ。あっちの学校よりもこっちに通わせるのが良いに決まってる。そんなことはお前もわかってるだろう。それで誤魔化せるとでも思っているのか」
 ソロモンはしばらくゼフィールを睨んだままだったが、手が一向に放される気配が無いことから、とうとう観念した。
「彼には――ヴァチカンとのパイプ役になってもらっている」
「やっぱりな」
 答えに満足したのか、ゼフィールはようやくソロモンから手を放すと、入り口横の壁に背中をあてて、煙草に火をつけた。彼はそうしてからようやく、自分の足元に血の染みがあることに気づいたが、面白くもなさそうに煙を埃や様々なものに塗れた部屋に吐き出す。
「……いつ気づいた」
 ソロモンが書類をしまい終えてから、口を開く。彼の顔の向きではゼフィールの顔は見えないのだが、どういう表情をしているかは――お互い同じくいかめしい顔をしているのだが――よくわかっていた。
「お前を見てればすぐにわかるよ。埋葬機関を抜けてからも、今までと同じようにヴァチカンのエージェントと接触しているだろう?その顔なじみにしたってそうだ。下手をすれば俺たちが狙われる危険性を考えてのことだろうが、まぁ、もう少し、背中を預ける奴の気持ちにもなってほしいもんだ」
 ヴァチカンとのパイプは必要なものだと、ゼフィールにもよくわかっていることではあるが、あえて、厳しい口調をする。それは、ソロモンにばかり難しい役目を任せている自分に向けてでもあった。
「すまん……私が悪かった」
「お前は素直なのが一番だな」
 ここでようやく、二人から微笑が口から漏れた。気分を変えて、今度はソロモンが質問をする。
「何故、そんなことを急に?」
「隠すのが下手なんだよ。隠すならシエルや志貴にそうするように、完璧に隠せ。俺にだけボロを出すな。今にしたってそうだ。何も俺の目の前で見せたくないものを広げなくても良いだろう」
「それは、だな」
 ソロモンは口を濁したが、それは一定以上にゼフィールを信頼してのことで、相手もそれを正しく理解したのか、煙と一緒にこの話を切り上げる気になったのだった。
「まぁ、いいさ。お前なら背中あずけたって良いんだ。なんなら、おんぶでもしてやろうか?」
「ふん、おんぶされたのはどっちだかな。あのとき、俺がどれだけ苦労してお前をタクシーまで運んだか分かってるのか」
 ソロモンが如何に死徒とはいえ、体格差を考えると、楽な仕事ではない。かといって、それを恩に着せる気は無かった。結果的に助けられたのは、誰よりもソロモンだったからだ。
「ああ、そんなこともあったなぁ。んじゃ、お返しにってことでどうだ」
「ふざけるな」
「俺は大真面目だよ」
 このときばかりは振りかえったソロモンだったが、ゼフィールに顔を向けようとして、そうはならずに顔が止まることになる。彼にとっては見覚えのある顔がドアの向こうに見えたからだ。
「邪魔をするぞ」
 酒場でテーブルを共にする相手に言うようにして、その男は入ってきた。背格好は一八〇を越えているものの、年齢は五十は確実に越えているということが顔の皺からわかる。歩幅は軍隊経験があることを伺わせるように正確で、足の運び方にも油断が無い。ゼフィールは自分が気づかぬ内にこの男が入ってきたことも忘れ、分厚いサングラスを外そうとはしない彼が一体何物なのかということに好奇心を覚えていて、ソロモンはそれに答えるように、立ちあがって男に向かって口を開いた。
「待っていたぞ、Dog。ケネスと言うべきか」
 一瞬、ゼフィールが身構えたのを、ソロモンが目線で制す。それを見た男は、気にも留めないといった様子で、肩を竦めておどけたのだった。
「お袋が死んで以来だな、そんな名前で呼ばれたのは」
「お前も焼きが回ったものだ。くだらん組織なぞに入りおって」
 ソロモンは彼のことを彼が若い頃から知っていて、ヴァチカンや元埋葬機関のこと以外では使わないようにしている気遣いを今回ばかりは見せたのも、彼が関わっていることを知ったからなのだが、彼はそれについて今のところ語る気はないようである。
「義理は果たさねばな。それももう終わった」
「なら、何故こんな周り周ったような方法を取る」
「奴らを試したかったのさ」
「奴ら、とは、CIAのことか、それとも、組織のことか」
「両方だ。あと、君らのことでもある」
 ケネスがここで初めてゼフィールを視線に乗せる。ゼフィールは既に彼と一戦を交える必要が、ソロモンと彼の会話の様子から、無くなったと悟っていたが、それでも、この油断のならない物腰の老人に目を向けられたとき、背筋が張ってしまったのだった。慌てて肩の力を抜いたが、ケネスは見逃すことはなく、一笑にふす。
 ソロモンはそんなやり取りは無視して、ケネスの真意を確かめることに専念した。
「本当は最初から私に接触するつもりだったんだろう?」
「ああ、最初はな。だが、今度はお前に貸しを作ることになっては本末転倒だ」
 こういった裏の世界では、貸し借りというメリットとそれに付随するリスクのやり取りだけが信用に足るもので、不本意とはいえそこにいた者は、知らず知らずにそういう感覚が頭に染み込んでしまう。それについてどうこう言う気はソロモンには全く無かったので、素直に言葉の意味だけを汲み取った。
「だからCIAが自分を保護するのに足りる連中か試したということか。……保険をかけた上で」
「そんなところだ」
 その取捨選択の結果、ソロモンを介した形でCIAに頼るという、一つの妥協案を彼は選んだようだ。一通り必要なことを聞いたソロモンは、今だ中途半端に緊張しているゼフィールのふくらはぎに蹴りを入れると、会話の主旨を変えた。
「いい加減に、その偏屈な性格を直したらどうだ。そうすれば人に利用されることも、嫌われることもなかろう」
「お前にそんなことを言われるとはな」
「まったくだ」
 ケネス、それにゼフィールが声を合わせる。今、ソロモンが語ったことは、そのまま彼にも当てはまることだったからだ。また、それについては、それぞれが違った形で認めてもいる。それが会話の端々から漏れ出た所為か、いつしか空気は緩んだものになっていた。
「お前は口を挟まんで良い」
「いや、あなたとは気が合いそうだ」
 ゼフィールがケネスに煙草を差し出すと、彼は警戒も無くそれに手を伸ばした。そして、ゼフィールがそれに火をつけた瞬間、ケネスが閉めたドアが大きく開け放たれたのだった。
「そこまでよ『Dog』、手をあげなさい!」
「まさかもう一人邪魔者がいたとはな」
 ソロモンは入ってきたCIA調査官のケリーの顔を見て、驚きよりは呆れを露にした。
 彼はケリーが邪魔をすることは予想していたが、いきなり拳銃を突き付けるほど乱暴な女性だとは思っていなかった。これは、彼が女性を見るときだけ微妙にピントがずれるからでもあるが、何より、彼女が今回の事件に対して抱いている感情を推し量り切れていなかったことが大きい。
「すまない、こちらの不手際だ」
「俺がのこのこ出てきたのが悪いのさ」
 ケリーとケネスとの間、距離にして三、四メートル。この距離で銃を外すことは先ずあり得ないし、弾が一つでも当たれば致命傷となる。しかし、銃口を向けられているケネスも、他の二人も、ケリーの感情とは裏腹に、実に落ちついていた。
「何をしているの、早く手をあげなさい!」
 焦ったケリーが、銃を構えなおす一瞬の隙をゼフィールは見逃さなかった。下手に銃を奪おうとすれば暴発する可能性があったため、やむなく、首筋にナイフを押しつける。一ミリでも横に力を加えれば、即頚動脈から鮮血が吹き出ることだろう。それでもケリーは銃を下ろさない。
 ソロモンが珍しく怒りを眼に溜めていたのを見て、ケネスが口を開く。ソロモンもゼフィールも、そう簡単に人間を殺すタイプでは無いことはわかっていたが、このまま行き違いが続けばどちらかが傷つくことになることもわかっていたからだ。
「何故、一人なのだ」
「これは私の問題だからよ」
「……君はあのとき同僚を看取った?」
「見ていたの?」
 やはりな、と口を動かしてから、彼はゼフィールからもらった煙草を深く吸い込んだ。彼はあのとき、まだ現場に残っていて、カーテンは人の目を欺くための機転だった。では彼がどこにいたかというと、子供でも思いつきそうなものの、実行するには四メートルのジャンプが出来る身体能力が必要な、天井裏だった。彼はそこから別の部屋に移動して、追跡者との時間差を利用し、裏口から脱出している。
「彼にはすまないことをしたと思っている」
「当然よ!あなたが撃ったんだから」
「私が?違う、私はたしかに銃を撃ったが、彼を撃ったのは私ではない」
「そんなことを信じろっていうの」
 言葉ではどうにもならないとわかったケネスはケリーの銃口へと一歩踏み出した。
「どういうつもり?」
「撃ちたければ撃て。ただ、私を殺しては、情報は手に入らないぞ」
 月並みな台詞だなと彼自身わかっていて、内心では自分のユーモアの無さに笑いさえしていたのだが、それだけ、余裕と上手くいくという自信があった。しかし、計算違いだったのは、ゼフィールがケリーを抑える力が一瞬だけ強まったことで、彼女が狂乱に走るきっかけを作ってしまったことだった。
「止めるんだ。君の負けだ」
 ケネスの言葉を合図にしたように、トリガーが引かれたが、銃弾はケネスには当たらなかった。間一髪、彼の前にソロモンが横から飛び出して、右肩で銃弾をさらうような形になる。
「ばっ……!ソロモン、何やってんだよ!」
 ゼフィールがソロモンに駆け寄る際に、ケリーの右手の親指に切り落とさない程度に傷を加え、そのために銃を持っていられなくなった彼女は、落ちる銃を追うようにして膝をついた。
「……これで、貸しだぞ、Dog」
「相変わらず大した奴だ。これじゃ、こいつに頼る他無いじゃないか」
 右肩の骨で止まった弾丸は、本来であればそのまま骨を砕き、肉をえぐったはずなのだが、それどころか弾は筋肉のだけではない力によって徐々に傷口へと押し戻され、最後にはコツリという音を床に響かせたのだった。ゼフィールはケネスにソロモンを椅子に座らせるように指示すると、自分は踵を返して、跪いているケリーの顎を手で押し上げた。
「今度、ソロモンに銃を向けてみろ。俺がお前を殺してやる」
 そのまま部屋の外へ蹴り出すと、支給品らしい拳銃を拾い上げて、彼女に向けて発砲した。弾は彼女の顔のすぐ横をかすめて、部屋のドアの延長戦上にある階段踊り場の窓を貫く。
「消えろ。お前の顔が無くなる前に!」
 拳銃を彼女に向けて投げ捨てると、途端に興味を無くした猫のように、顔を背けるとそのまま部屋の中へと戻っていく。ほどなくして、ケリーが階段を走り降りていく音が建物に響いたのだった。
「無茶が過ぎたかな」
「いくらお前でも、頭に当たってたらただじゃすまないんだぞ」
「銃の方向ぐらいは見てやってるさ。あとは私が寸分違わず飛び込むだけの話だ。彼女の銃の腕前が良くて助かった」
 ゼフィールにも幾分か躊躇があった。ケリーの体に悪影響が出ることを恐れて、自分の『塩』の能力を使わずにいたのだから。あの状況下で、誰もがケリーを必要以上に傷つけたくはないと考えていたのは、少々、偽善ばったものがあるものの、それが一種の連帯感を作り上げているのだから、皮肉ではある。
 ケネスがそういったことに今更のような気持ちで考えをめぐらせながら、先ほどのお返しとばかりに、ゼフィールに自分の煙草を差し出す。先のそれよりも品質は落ちるが、たしかな銘柄のものだった。お互い、マリファナを混ぜるような趣味は無いらしい。
「すまない」
「いや、良いんだ」
 ゼフィールは久々に吸った別の銘柄の煙草の味を新鮮に思いながら、別の楽しみを思いつく。
「心配させたんだから、俺の言うこと聞いてもらうぞ」
「まさか」
「そうだ……ふふっ」
 かくして、ソロモンはゼフィールの背に乗せられ、家路へとついたのだった。

「ソロモン!」
 体の心配よりも穴の空いたスーツのことを心配しつつ、ソファに身体を預けていたソロモンに、シエルが大声を張り上げる。傍でうたたねをしていたゼフィールは驚いてソファから転げ落ちそうになり、テーブルの横に敷いてあるカーペットの上で志貴と有彦は明日の準備をする手を一瞬止めた。子供たちは、新しい客人であるケネスの髭を手で引っ張ったりして、ケネスも分厚いサングラス越しに柔らかい雰囲気を子供に向けていた。
「なんでこんなにもぽんぽんとお客様を増やすんですか!」
 元々は五人だったのに、たった一日の間に三人も増えているのだから、家庭内を取りし切っているシエルにしてみれば、一大事である。鬱憤晴らしにカレーでも作り出しそうな勢いであることを考えると、他の人間にとっても一大事だ。
「シエル君には悪いとは思うが、仕事だと思って……な?明日には彼をCIAの支局に連れていくのだから我慢してはもらえんか」
「……わかりました。その代わり、私は乾君に加えて子供の世話もしなくてはならないんですよ?ソロモンだって、怪我をしていますし」
「ああ、それじゃ、俺と志貴の交代で彼の見張りをするよ。なら構わないだろ。な、志貴」
 ゼフィールが、テーブルの脇に腰を下ろして有彦と地図を見ながらあれやこれやと検討している志貴に声をかけると、彼は丸を一つ付け終えてから、首を振り向かせた。
「まぁ、仕事だしな。ただ、明日は有彦と朝早くに出ないと行けないから、二交代なら俺が先にやるよ」
「わかった」
 話が決まったところで、さも当然のようにカレーが食卓に並ぶ。ケネスと有彦の息子の正行を除いた大多数の人間は「やはり」と思いつつ口にそれを運んでいたが、特別な感情をカレーに持っている咲美は、父親がまた母親を困らせるようなことをしたのだと思って、彼を子供ながらしたたかに睨みつけたのだった。


 夜の十時を過ぎて、すっかり静かになったリビングで、志貴は冷蔵庫から拝借してきたミネラルウォーターのボトルを口に運び、なんとか胃の中の荒波を引かせていた。落ちつかないのはそれだけが原因ではなさそうで、それとなく窓の鍵を確認する振りをして外を見れば、比較的若者が少ない住宅地には不釣合いなバンや、月収水準に見合わないセダンが止まっていて、うんざりした彼は、もくもくと煙草を吸いつづけているケネスの斜向かいにあるソファに座った。彼は時折、何かを思い出したように顎にたわませた髭を手でつまんでは、サングラスの向こうで瞼を開けたり閉めたりしているのだった。
「さっきは、娘と遊んでくれてありがとうございます」
 控えているものの、相変わらず楽しみの一つである煙草の煙をくゆらせて、志貴はケネスに声をかけた。こういうとき彼は、つい、相手は何を考えているのかということに気を遣うのだが、緊張するということもなく、自然と言葉が出る。
「構わんさ。こんな爺むさい男で良ければ」
「あの子は、おじいちゃんってものを知りませんから」
「……なるほど」
 それは志貴も同じことで、老人というものはどこか遠い存在のようにさえ思える。遠野家の主治医だった医者のような人物は稀有で、それでさえ、親しく接するようなこともない。とはいえ、誰だって、老人というものは、若い時分には遠い存在なのかもしれない。
「なんで、こんなややこしいことに?」
 次の煙草に手をつける段になって、久しい静けさは終わる。何かを話そうとしているのはお互い同じであったが、それに必要性を見出しているわけではなく、ただ、口が動けばそれに行き当たるというだけの、場当たりながら神妙な空気がこの会話には混じっている。
「君は、仲間を簡単に見捨てられるかい。例え、悪いことをしていると知っても」
「……わかりません。そのときにもよります」
「良い答えだ。だが、覚悟はしておくに越したことはない」
「覚悟なんて、何の意味もないです」
「……そうかもしれんな」
 今現在こそ、自分が悪人であるのか、善人であるのか、判別はつかない。そして、いくらどちらかを自称するなりしたとしても、いつそれを否定することになるかわからず、えてして、それは不可逆である。死の点というものが偶像としてではなく実像として見えてしまう志貴にしてみれば、そんな流動的で、かつ上流と下流は絶対であるとするものは、どこか無力感にさいなまれながらも、滑稽にさえ思える。そして、それは紛れも無く彼の本心である。それは、絶対と言える死を相手に強要できる彼ゆえの矛盾であり、苦しみなのかもしれなかった。
 何時の間にか結構な時間が過ぎたようで、じきに、ゼフィールが志貴と交代するために起きてきた。寝起きにいつもそうするように、あちらこちらで何かとぶつかる音がする。いつぞやなど、ソロモンのベッドにもぐり込んだことがあって、危うく刃傷沙汰に発展しかけたりもした。以来、彼はパウロを自分の部屋のドアの前で見張り代わりにしている。敵意が無い相手を見張れとわれたパウロも良い迷惑である。
 ケネスがあの物音は何事かと志貴を見たが、彼が笑っているのに気づいて、ケネスも何かしら納得がいったようで、煙草を深く吸い込んだ。
「君は明日、友人とすることがあるんだろう?それに専念したまえ」
「……わかりました」
 ゼフィールがパウロに襟首を噛まれながら引っ張られてきたのを見た志貴は、去り際にケネスの方で何かが光ったのが見えて、振りかえったが、それらしいものは眼に入らなかった。
「どうかしたかね」
「いえ、風邪をひかないかなと思いまして」
「私がか、それとも、彼女がかな?」
 志貴は笑いながら自分の部屋へと歩いていった。ケネスがそれを見送った後、彼はサングラスを取ると、おもむろにそれを握りつぶした。フレームが歪み、合成樹脂が鈍い音をたてて割れる。彼はその中に見なれた小さな機械があるのを見ると、立ちあがってそれをゴミ箱の中に放り込んだ。
 再びソファに座り込むと、灰皿から幾分か無駄に煙を出してしまった煙草を摘んで口へと運ぶ。気づけば、先ほどサングラスを壊した左手からは血が出ていて、パウロがそれを舐め取っている。
「……俺の血は不味いぞ」
 このとき、パウロは初めてこの男の目を見た。どす黒い瞳を押しつぶすかのように細くした瞼は、いつしか固まり、その周りの力強い皺が印象を深める。彼はいっそう眉をひそめると、パウロの頭を二度、撫でるように叩いた。
「あいつは飼い犬にも恵まれたか」
 彼が老人らしい暮らしが出来たのは、この日、ただ一日だけだった。