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第十話「ダンテスについての幾つかの述懐」

 患者である琥珀嬢の症状は膠原病のようだった、と患者の没後、医師は述懐している。この医師はことさら詳細に遠野屋敷へ診察に出向いた際の記録を、公私的、問わない形で残していて、それは患者への心理的配慮を図るためでもあり、かつ、地元の名士として名高い遠野の屋敷に足を運ぶ機会に恵まれた数少ない人物としての好奇心もあったのではないか。翡翠は、しばしばメモを取る医師を見たときの感想を、日記に綴っている。
 翡翠は、琥珀の容態が急変したときまでは主体的に琥珀と接していたのだが、それを過ぎ、死の直前に至るまでは、客体的であった。それに加え、医師を介して琥珀を診るという方法を取ったために、この撮影するカメラマンを撮影するのにも似た状況が出来たのだった。ただ、注意しなければならないのは、彼女は平生から姉に接するにあたっては主体性を欠くことが多かったということだろう。
 琥珀の症状が人目につくようになったのは、死の床に横たわったときから遡って、一二年ほど前。医師が付くようになったのは、それから七年後のことだ。それまで医療に頼ることを考えつかなかった関係者を責めるのはお門違いだが、もとよりそのような注意をする者もおらず、それはすなわち、彼女の関係者と呼べる人間がごく限られた人数しかいなかったということでもある。
 そのごく限られた関係者の心境はというと、大丈夫だろうという楽観こそ表面に出ていたが、確信といって良いほどの死の予感があった。
「そんなせめぎあいを止めてくれたのは、誰あろう、姉さん自身でした。姉さんはいつかしら死を基準に生を捉えるようになっていて、私がそう思ったのは、御一族の会議に出席する秋葉様の最後のお供を姉さんが勤めたときでした」


 出立の日、翡翠が目覚めたのは、早朝七時だった。いつもであればこの時間ではいささか遅い。もっとも、彼女が毎日早起きするのは、夫に愛妻弁当を持たせるためでも、彼女が特別早い時間に遠野邸に出向く必要があるからでもない。前者についてはもはや語る必要性を疑わなければならないし、後者については現在は琥珀が早番を勤めている。習い性といってしまえばそれまでだが、それに加えて、彼女には早朝の通過儀礼があるのだった。既に寝室から出て朝食を作っているらしい夫のことを寝ぼけた頭でぼんやりと考えながら、その寝床とは反対側で寝ている息子の正行に視線を移す。誰に似たのか知れない血の気の薄さを寝顔に浮かべている息子の額に自分の掌を当てると、そこから生気が注がれたかのように、赤味が滲んでいった。
 果たして、生気を注がれたのはどちらなのだろう。翡翠は、夫が気を利かせて閉めたままにしておいてくれたカーテンの隙間から入ってくる陽光を、未だ敷布団に横たえた体の背中に透かしながら、自分の体から産まれた我が子の存在感を掌で感じ、自問した。
 単純な割り算や引き算で考えれば、母親は自身を犠牲にして子供を産んでいることになるはずなのに、疑う余地も無い充足感が掌どころか全身に満ちている。それを零れ落とさないよう、日ごと、心の外側が補強されていく感すらあった。たしかに、そのささやかな水容れに波紋や淀みが生じることもあるのだが、それはそれで、彼女には観賞に足るものだった。
「起きたの?」息子はうっすらと開いた瞼を何度か動かすだけなのだが、翡翠は「そう」と告げて、自分の体を起こした。「朝ご飯ができたら呼ぶから、それまでゆっくりしてなさいね」
 寝室に置いてある鏡台の前で、寝ているときに髪をまとめていたゴムバンドを外すと、髪に軽く櫛を通し、前髪が目にかからないよう整える。綿製のニットパジャマから、いつも枕元に置いてから眠る仕事着に、着替える。エプロンとヘッドドレスは出邸してからつけるため、肩掛け鞄に詰めてあった。念のために鞄の中から携帯電話を取り出して、着信が無いかを確認するが、杞憂に終わった。昨日は珍しく琥珀を介してではなく秋葉自身から「明日は昼食を屋敷で終えてから出立するから、それまではのんびりしてなさい」という旨のメールを受け取っていて、それを頭の中と履歴表示で再確認すると、携帯電話を再び鞄の中に戻し、寝室を出、息子を驚かせないよう、ゆっくりとドアを閉めた。

 おはようございます、と声をかけると、先に台所に入っていた夫の有彦が、コンロの火を落としてから廊下側に振り向きざま、応えた。昨日にアイロンをかけたばかりのワイシャツの袖をくしゃくしゃに捲った腕でフライパンと菜箸を持っていて、エプロンはつけていなかった。
「おはよ。悪いけど、姉貴を起こしてきてくれないか……まぁ、どうせ寝ずに何かしてるんだろうけど」
 それを承諾した翡翠が台所を出ていくと、有彦は火を通した細切れのホウレンソウに胡椒をかけ、まぶしてから、卵焼きが乗っている人数分の皿の隅に盛っていった。今朝は起きたときから胃が重たかったが、かといって何も胃に入れないわけにはいかないのだから、人間の体の出来たるや、まこと不憫なものだった。

 乾一子は翡翠からみて小姑にあたる。よって、小姑はどうか知れないが、翡翠はそれなりの緊張感をもって接することになる。ただ、意識の面では幸福な関係が保たれており、それは客観的に見れば二人とも欠点が先に立ち、当事者から見ると美点に映る部分が多いからなのかもしれなかった。
 一子の部屋は二階にあり、昔から変わっていない。しかし、それ以外の二階の部屋――合計で二つしかないのだが――は物置と化していて、それは、有彦が仕事や趣味に関する作業などをするとき、かつての自分の部屋ではなく一階の居間を使うようになってからのことだった。正行が大きくなり、自分の部屋を持ちたいと考えるようになれば、埃が払われることになるのだろう。
 さて、そんな事情により、一子はここのところ、隣室から聞こえてくる騒音に耳をわずらわせることもなく作業に没頭できるようになっており、現在も作業中だったが、朝陽が部屋に差し始めてから下降線を描き始めたテンションに逆らうこともなく、ここ一時間ほどはのんびりと煙草を吸いながら、自分が作り上げたものを前にして何某かの啓がある度、スケッチやメモにペンを走らせていた。
「翡翠ちゃんかい?」
 丁寧な叩き方でドアがノックされると、一子はドアに話し掛けた。普段なら、別に意識しているわけではないものの、誰かを部屋に入れることはなかったが、翡翠が用件をドア向こうで伝える前に、入んなよ、と声を出していた。
「失礼します……おはようございます、一子さん」
「ん、おはよ。朝飯かな?」
 翡翠は頷くと、閉められた状態ながら微かに朝陽を取り込んでいるブラインドカーテンに目を遣った。一子は作業台に、上に乗った用紙や道具ごと布を被せてから、翡翠に向けて口元を笑わせて見せると、彼女はその意を解したらしく、ブラインドの紐を引っ張り、そして窓を開けた。住宅地なのでそれほど風は吹き込んでこないが、心地よいと思える程度には、頬を撫でてくれた。
「雪が降るまでだろうね、こんな朝は」
 地方によって多少は異なるものの、近年は総じて、一二月中に本格的な降雪というものは無かった。秋雨前線が通りすぎ、重苦しい雲が背中に隠した太陽がときどき顔を出す。そのおかげで、気温や時期のわりには心地よい朝が何日かに一度は迎えられる。
「ああ、そうだ、それまでには一度、この部屋のベッドを陰干しにしたいのですが」
「うん、わかった。時間があるときで良いからね」
「はい」
 こういうとき、一子は不思議に思うことがある。自分が不精だからなのかもしれないが、翡翠のようなタイプは、自分の寝床でもないのに、綺麗にできるというだけで嬉しそうになるのは何故なのか。口に出して聞くには、その疑問は自分を棚に上げる性質のものであった。
「有彦とマサ坊は朝出たらそのまま行くんだろ?」
「はい。私はこちらでお昼を済ませてから、ということになってます」
 一子は、ふむ、と一人ごちながら短くなった煙草の煙を窓の外に吐き出す。快晴とまではいかないものの、風に乗って走る雲の群れの親玉はまだ来そうにない。彼女の頭の中からはもう、男二人に対する心配は消えていた。
「それじゃ、たまには外で食べようか。食い扶持も減ることだしさ」
「よろしいのですか?」
 翡翠の言葉には三つの対象があった。先ず一子の予定。次に金銭。もう一つは夫や息子だった。しかし、どれに対する気遣いも一子にしてみれば皮肉の材料にしかならない。
「男どもは海外旅行だよ? それぐらいの贅沢はできるし、許されるに違いない」
「そうかもしれませんね」
「なんにしても、昼飯の心配より、今は朝飯に行こう。冷めてしまうと、有彦の奴がスネてしまう」
 翡翠が率先して部屋を出る間に一子は煙草の火を灰皿に押し付けた。今日は少し眠るのが遅れそうだ。目覚めたとき、この家には自分以外の人間はいなくなっている。自分はそう寂しがりやというわけでもなかったが、その代わりに、どこかつまらない気分になる。それを誤魔化せるなら、予定の多少の変更はさして気になるものでもなかった。

 有彦と正行の出発はこれといった問題も無かった。しいて挙げるならば、出発前に有彦が薬のビンを鞄に詰めていることを翡翠が目撃したことぐらいだろうか。何はともあれ、彼女は息子に父親から離れないよう、食べ物には注意するよう告げて、送り出した。母親の料理に対する警戒心が本能に擦り込まれた結果、嗅覚が異様に発達した正行がどのような職に就いたか。運命の皮肉を語るには、それは先が過ぎる話というものだった。

 湿気を纏った風に当てられている洗濯物を塀に面した中庭で眺めながら、翡翠は思案に暮れていた。思案といっても、特別なことを考えていたわけではなく、――この天気が続くとしたら、洗濯物はいつ乾くだろうか。いっそ取り込んで、後始末を一子に頼もうか。外食をするならば着替えた方が良いだろうか。それよりも、外食とはいっても、一子はどこに行くつもりなのだろうか。そういったことを、カーテンの傍らで考えていたのだった。
「どうしたい、気の抜けた背中なんかしちゃって」
「あ、いえ……ちょっと」
「ちょっと、ねぇ」
 一子は朝食を食べてから洗った髪の乾き具合を、そこに撫でつけた手の加減で確かめつつ、首を回した。見ようによっては、髪の長さを気にしているようでもある。しかしながら、彼女はそこまでの気分転換を今のところは必要としていなかった。
「内心、一緒に行ってみたかったとも思ってるんだろ?」
「そういうわけにもいきませんから」
「まったく、真面目だよ、翡翠ちゃんは」
 誉め言葉ではない。かといって、馬鹿にしているわけでもない。何故、こんな良い子がどこをどう間違えて我が家の表札に名前を収めたのか、それに対してどう接して良いものやらわからない自分もいる。一子自身、何に対して呆れているのかわからないぐらいだった。
「なんでこういうときに限って遠野の大事があるのか、とか、もう少し有彦の奴が日程をずらしてくれれば、とか……愚痴ぐらい出せば良いのさ。度が過ぎなけりゃ、いくらでも私は聞いてやれるんだからさ。実のお姉さん相手じゃ、そういうことは言えないんだろう? 有彦のやつに聞かせたって、あいつは面倒くさそうな顔をするだけだろうしさ」
「はぁ、いえ……まぁ、はい」
 一子の話を聞いている間の翡翠の心中は煩雑だった。なるほど、そういう考え方もあるのかと納得してみて、しかしながらそれは自分には似合わなさそうだと思う。その直後、それなりに気を遣ってくれている一子の手前、肯定の意を表す。終始そんな調子で、一子も自分が何を彼女にさせたいのかわからなくなったので、とりあえず、先ほど自分で用意した、机の上に乗っかったまま温度を下げつづけていた緑茶を呷った。
「お茶、いれ直しましょうか?」
「頼むよ。慣れないことはするものじゃないね」
「まったく、その通りです」
 焦る必要は無いのかもしれない。その必要とやらが出てくれば、自ずと変われるだろう。目下のところ、その必要が出てくるのはこの二人の間でのことではなかった。
 ジリリリというチャイムが鳴り、ちょうど緑茶をいれようと台所に立った翡翠が、立ちあがろうとしていた一子を手で制して、自分が玄関に出た。ドアを開けた先に立っていたのは、琥珀だった。
「翡翠ちゃん、おはよう」
 妙に乾いた風が、玄関から吹き込んだ。


「いやぁ、翡翠ちゃんのいれる緑茶は美味しいですねぇ。久々だからなおのこと」
「生ビールもあるけど、やるかい?」
「ああ、良いですね」
 琥珀と一子が旧友同士のように仲睦まじく一杯やろうとしていると、待ったの声が出る。
「お二人とも何を仰ってるんですか! 一子さんはともかく、姉さんはこれから仕事なんですよ? 第一、なんでその姉さんが今ごろここにいるんですか。秋葉さまはご存知なのですか。それに、準備は――」
 捲くし立てる翡翠を、まぁまぁ、と一子が宥める一方、琥珀は「調子に乗り過ぎましたかね」と照れ隠し。翡翠はまだぶつぶつと不満を顕わにしていたが、じきに琥珀が事情を説明し始めた。どうやら、単に妹をからかいたかっただけのようだ。それがまた翡翠には不満であったが、自分でも大人気無いことを自覚しているのか、顔に出すだけにした。
「秋葉さまが『会議自体は明日の朝からなのだから、向こうには夜までに着けば良い』と仰って、私を追い出したんですよ。もちろん、建前としては『あなたと翡翠の休みを潰してしまうから、代わりに今日のうちに楽しんできなさい』といったものですけどね。魂胆が見え見えで。秋葉さまったら、ご自分の着ていくものをあれこれと私がお節介するのを嫌がってるんです。まったく、秋葉さまも、志貴さまのことを悪くは言えませんよ。あのご兄妹は、とにかく、人の見ていないところで楽をしたいと思っていらっしゃる――」
 翡翠は段々と頭が痛くなってきたのだが、琥珀は口を止めない。果ては半年も前のことや秋葉の人間性や情操教育についてまで引っ張り出す始末だ。一子はそれなりに楽しそうな顔をしながら頷いているのだが、翡翠にしてみれば、さして新鮮な話題でもない。頃合を見て話題を元に戻す必要があった。
「それで、どうしてここに来たんですか」
「心外ですね。翡翠ちゃんは、私が可愛い翡翠ちゃんのところでこの荒れ立った心を潤したいと思わずにいられなかったことを、察してはくれないの?」
「おかげで私の頭が荒れ立ちそうです」
 超高速度撮影カメラでもあれば、吹き出物が発生する瞬間を映像に残せたかもしれない。翡翠のストレスグラフは二次関数的曲線を描いて急上昇していた。
「うう、翡翠ちゃんはいつからそんな皮肉屋になったんですかぁ……ああ、こんなことならお嫁に出さなければ」
 琥珀はいつも着ている仕事用の和服の袖で瞼を隠し、泣いているような演技をしてみせる。と、それまではニヤニヤとしていた一子が、緑茶の入った茶碗を大げさに音を立てて机に置いた。琥珀は心していたのだが、翡翠は突然のことで、ストレスのことなど忘れて、目をきょとんとさせた。
「まるで我が家に来たことが悪いように聞こえるな」
「あら、思い当たる節が無いと仰る?」
 琥珀は目だけを袖の影から出して、口元が隠れるようにする。天然一筋直球勝負で生きてきた一子としては、こういった芝居がかった仕草は目障りな部類に入る。
「そうだね、思い当たることといえば、意地の悪い姉から解放された翡翠ちゃんがどれだけ嬉しかったろうか、ということだろうかな」
「本当に意地の悪いのはどなたやら……」
 一触即発の様相を呈したまま、何秒かが過ぎていく。翡翠が注意しなければ、一子は短くなった煙草の火種で指に火傷をしていたことだろう。
「お、お二人とも、お止めになってください。私はこちらに嫁いだことを後悔したことはありませんし、姉さんのことだって本気で疎ましく思っているわけではありません。ですから……後生ですから、私のことでこのような――」
 先に笑い声を挙げたのはどちらか知ら。まんまと二人にからかわれたことに翡翠が気づいたのは、五秒後。怒り狂う半面、恥ずかしさもあってトイレに鍵をかけて篭ったのは十秒後のことだった。そのため、十分ばかり、トイレのドアを叩きながら一子と琥珀は謝罪するはめになった。
「心底不快に思うことは滅多に無かったものの、私の人生は総じて、意地の悪い相手と如何に付き合うかという思案に消費されたのです」
 彼女は冗談交じりにそう日記に記したのだが、そう的外れな見解ではなかった。


「翡翠ちゃん、まだ決まらないんですか?」
「ええ、その、なかなか……」
「なんだったら私が適当に選ぼうか」
「それなら私が」
 ウェイター係のバイト君が賑やかな席だと思ったのも仕方が無いほど、彼女ら三人、特に二人だが、熱が高かった。滅多に散歩に連れ出せない飼い犬を相手に遊んでいるようなもので、どちらがその首紐を握るかが重要だった。飼い犬にあたる人物にしてみれば良い迷惑というやつなのだが、それは瑣末なことだとされてしまう。
 昼前の空いている時間帯を狙って行く店を考え始めたところ、一子としては値段に見合う味と、なにより量を求めたため、一時は大衆食堂に行くかという話になったのだが、琥珀がせっかくだからということでそれなりの美味しさと豪華さを求めたため、二人の間を取って、翡翠が駅前から少し離れた再開発地区に新しく出来た近頃評判の中華料理店に決めた。
 その段になって翡翠は仕事着から着替えた方が良いかということをまた気にしたのだが、一子が車を出すことや、それほど格式ばった店でもないということで、結局、そのままの格好で出かけることになった。
 そして、到着してメニューを見始めてから一五分、ようやく三人の注文が決定した。列挙すると、ワンタンメン、タンタンメン、餃子四枚、チャーハン、ラーメンライス定食、鶏の軟骨のから揚げ三人前、生野菜盛り合わせ。どう考えても女性三人が食べるにしては多く思えるのだが、ウェイターが確認しても、「いいから早く頼む」と急かされただけだった。
「ま、これだけ頼めば、一つぐらい当たりがあるだろう」
「それにしても、ラーメンライス定食というのは……ラーメンライスだけで定食のようなものだと思うのですが」
「いや、これで七百円なのだから、頼まないのは庶民としておかしい」
「あの、ラーメンライスってなんですか――」
 各々、好き勝手に会話しつつも時間が流れ、じきに注文した品が机に並べ始められた。一子は出された端から食い始め、琥珀は合わせた両手の親指と人差し指の間に割り箸を挟んでいただきますと告げてから着物の袖を捲って食べ始め、翡翠は綺麗な一直線に割れた割り箸に満足し、タンタンメンをすすり始めた。
「ここで提案だが、万が一にも残した場合、罰ゲーム決定」
「ば、罰ゲームですか」
「いや、言ってみただけ。まぁ、残さないに越したことはないんだけど」
「お百姓さんに失礼ですしねぇ」
 どうも素っ頓狂な会話になってしまうのは、それぞれの意識が目の前の料理を味わう、というより掻き込むことに傾けられているからだった。一子はラーメンライスのライスをどんぶりに突っ込む頃合を見計らっているし、琥珀はワンタンメンをすする一方、餃子を一つ食べる度に、ラー油や酢を皿に加えて味を調整。翡翠は翡翠でタンタンメンのタンタンとは何だろうかという、どうでもいいことに思考の波をぶつけている。三者三様ではあったが、全員が意外にも美味いと評したのは鶏の軟骨のから揚げで、あっと言う間に無くなった。
「これでビールがあれば最高なんだがね」
「だめですよ、一子さんは車の運転があるんですから」
「あ、私、免許ありますよ」
「初耳です」
「あれ、翡翠ちゃんに言いませんでしたっけ?」
「たしかに、取ろうかなぁ、と言っていたのは覚えてますけど……」
 そう、たしかに言っていった。それも自分が嫁ぐか嫁がないかの頃に。ということは、大分以前から姉は免許を取得していたのか。思い出してみれば、買い物に行って来ると言った直後、裏口の方で車のエンジン音が聞こえたことは一再ではないし、外出の時間も短くなっていた。それにしても、着物で運転しているとは、なかなか器用な足をしているものだ、と的外れな得心をした。
「今日だって車で来たじゃないですか」
「もしかしてウチの前に路駐してたダークブルーのビストロって、琥珀さんのかい?」
「ええ、本当は新車を買えるだけのお金はあったんですけど、秋葉さまが『どうせぶつけるだろうから中古にしておきなさい』と仰ったので」
 それを聞いた一子が鼻で軽く笑ったのは、実際、秋葉の言が当たっていたからで、琥珀ものだということが判明した車の側面やフェンダーにはその痕跡があった。それでも、中古車を数年も乗り続けているあたり、致命的なミスをするような運転はしていないようにも思える。無謀とか暴走とかいう冠名がつく運転をしているなら、足周りが無事であろうはずもない。
「言ってくれれば、良いツテがあったのに」
「それでしたら、買いかえるようなことがあれば、そのときにお願いします」
 その会話の間にも、目の前の品は減り続ける。その手際の良さは、タンタンメン一品に専念している翡翠から見ると、二人の口や食道は喋る用と食べる用に内部で分かれているのではないかという、グロテスクな想像をかきたてられるほどだった。
「ウェイターさん、生ビール追加ね」
 こうして、未だ姉の運転を信じられていない翡翠は琥珀の運転する車に初めて乗ることが決定的になった。


「あら、おはよう。もう少しのんびりしていれば良かったのに……どうかしたの?」
「いえ、食べ過ぎと気疲れで……」
「でも、琥珀も一緒に行ったのでしょう?――ああ、琥珀が原因なわけね」
 翡翠は答えなかったが、その必要も無かった。こと琥珀に関しては、秋葉の方がより客観的になれる面が多かった。主観的な面においてはどうだろう。琥珀の死後、彼女が脆い精神を如何にして保ったかを翡翠が日記に記すのはいつのことか。少なくとも、現在においてはそのような推察は誰にとっても不快かつ傲慢と取れるものだった。実際、はつらつと旅行鞄にして三つほどある荷物を車に運んで運転手にトランクへ詰めさせている琥珀を見て、そのような推察ができるほど、彼女らは現実から空想を飛び立たせられるわけもなかった。
 秋葉は、読んでいた原語版のモンテ・クリスト伯を置いてから、翡翠がいれてくれた紅茶を手に取ると、口に運んだ。
「琥珀はきっと、歳を取っても、変わらないに違いないわね」
「姉さん自身も変わろうとしてませんし、環境も変わりそうにありませんし……たしかに、そんな気もします」
「あの子の嫁ぎ先を考えるのも私の勤めなのでしょうけど」
 秋葉は切なそうに言いつつも、それが本心から来るものではないという冷静な見解もあった。もしかしたら、自分は望んで現在の状況を作り出してきたのではないかという深刻な疑問にも大分前から行き着いていた。残らざるものが出ていった後、残った自分と琥珀は狂ったようなティアマトの胎内で腐っていくのではないか。もっとも、この考え自体も本心のようには思えず、それが大げさな暗喩となって表れているようにも秋葉には思える。
「秋葉さま?」
「なんでもないわ。ちょっと、向こうに着いたあとのことを考えてただけだから」
 心配そうに首を傾けてこちらを気遣っている翡翠を誤魔化すと、まだ熱い紅茶を飲み干した。
「それよりも見て、この服。琥珀がいなかったから、タイやスカーフは締めずに済ませたし、スカートの代わりにズボンにもできたわ。本当、翡翠には感謝してる」
 たしかに、自慢げに襟元を広げたりズボンの裾を伸ばしたりしている秋葉を見れば、翡翠でも、琥珀ならばフォーマルとファッション双方を高次元に高めて、どこぞの会食にでも送り出そうとするように世話を焼いただろうことは想像に易い。秋葉としては、大卒後の変化に乏しい社会人生活の中での遠出には、緊張感を横に置いておきたい気持ちがあるのだろう、と翡翠は察していた。彼女の場合、緊張感ならば服を着なくても十分にあるだろう、とは口にしないでおいた。
「そう言っていただけると、私も助かります」
「さて、行きましょうか。カップは水に浸けておくだけで良いわよ」
「かしこまりました」
 翡翠がそのカップを洗うのは、当初の予定よりかなり後のことになった。