第十一話「経緯度線上のアジア」
「なんでも、長いこと陽の光を浴びないと、人間というのはヤワになるらしいな」
「ここのことを指して言っているので?」
いや、と声を出してから、斜向かいの席で足を組んでいた女性が質問者を一瞥した。すると、また目線の先を換気扇のあたりに戻して、肝心なことを口にした。
「組織そのものを指してだよ」
ここにはかれこれ一ヶ月半ばかり詰めっぱなしであったから、上司の興味が外に向くのは、彼としては願っても無いことだった。なんせ、ここといったら外と繋がっているのはエアダクトぐらいのもので、所員がそれぞれ持ちこんだ家族の写真やら手紙やらが、精神的に外との繋がりというやつを保持していたが、自分のような、親も妻子も、兄弟も何もかも、ああ、そうだ、恋人ってやつもいたな。――親類縁者だとか「大切な人」だとか称される連中とは気づいたらお別れをしてしまったような者には、目の前の環境が自分の全てと言っても過言ではなく、大規模な軍事作戦の準備期間でもないのに光沢のある机を前にしてただただコーヒーや酒で誤魔化す必要がある時間を送るのは、耐えられないわけではないが、堪ったものではなかった。実際のところ、彼のような境遇の者はそうでない者よりも多かったのだが。
「どのような判断をしたわけで?」
「判断? いや、そんな高尚な活動をしたわけじゃない。吹っ切れただけさ。コネクションが無くなったわけではないが、以前と違って一つの大船に乗っかっているわけじゃない。以前からやっこさんどもを糸に繋いでおいて良かった。知ってるか、日本ではカイトのことを『タコ』と言うそうだ。奴らにはちょうど良い名前だ」
はて、と思ったのは、別にタコという名称に感慨を覚えたからではない。自分の上司はこれほど饒舌な人物だったろうか。なるほど、あらゆる権限と責任を一身に背負うようにもなれば、概念的な自由度は増したものの物理的な自由については自重を求められるのだから、その分だけ舌が動くようになってもおかしくない。とはいえ、この女はトカゲのようなもので、捕まえたと思っても簡単に尻尾を切られてしまう。下手をすれば逞しい生命力の塊の一部であった尻尾に手を絡め取られてしまうことだろう。そういった類の出来事は、実話と噂の双方に認められたのだった。
「糸に繋いであったわりには、ずいぶんと派手なことになりましたが」
「他のものの糸に絡めた後となっては、派手に落ちてもらった方が都合が良い。敗者が惨めであればあるほど、勝者の名声は高まる。もっとも、奴らは敗者とは思っていないだろう」
「そのために、クリントン政権時代からの方針を変えずにいたわけですか」
「もともとは我々の立てた計画ではなかったが、ブッシュ政権にあたって、引き継ぐは易かったからな。国家間のパワーゲームになれば、裏にまで目の届く資本家も金を出してくれる。今のところ、我々は、どさくさに紛れて組織力を高めなければならないからな」
「随分と情けない話ではありますな」
「そう皮肉るものでもあるまい。死徒どもは我々が落ちたと思って好き放題。そのおかげでこうして日陰でのんびりできるわけだ」
「かつての番号保持者たちが聞いたら、さぞお怒りになるでしょうな」
左右に分派したとはいえ、先達の者に対する畏敬はここではタブーにならない。それは、理想的な能力主義とでもいえる形がこの組織においては完成されていたからだった。
「彼らは常に怒っていたよ。今更、その矛先がどう向こうと、私の知ったことではない。給料を払ってやる必要も無くなったしな」
「一度はあなたにその矛先が向いたではありませんか」
「どうした、今日はやたらと食って掛かるじゃないか」
三本目になる煙草に手をつけてから、彼女は述懐といって良い表現を口にした。口元が歪んだのは、煙に飽きはじめたからなのか、判別はできない。
「彼らは、なんだかんだで私に対してある種の信頼というやつを持っているのは確かだ」
「では、それ以外の伝手を潰せば?」
以前からの打ち合わせがここでようやく実を結んだようだった。最終的な指令は口頭か彼女の目が行き届くところで行われる。それならば、と自分から切り出した。それは成功したらしく、上司はこくんと頷いた。
「ただし、あくまで穏便に、だ。無理だと判断したらとっとと帰って来い。他の仕事はいくらでもあるんだからな」
呟きに近い命令を告げると、彼女の意識は既に他の仕事とやらに向けられた様子だった。
「思想からの脱却、と云うのが妥当に思える。組織的な方法論が確立されてから幾世紀、彼らが実務的な面における理想を実現しようとするにあたって、思想的な面からくる理想は足かせにしかならなかった。たしかに、二〇世紀までは客観から同一視しても問題が無いほどに足並みはそろっていたのだが(神聖ローマ皇帝の権威失墜にしても、社会主義の台頭にしても、組織的な分裂には無縁であった)、いつしか双方を繋ぐ縄はお互いを引っ張り合うだけのものになっていた。その縄を強引に切った事件を機会としたのは、あの理想的指導者の下においては、自明の所作であった。しかしながら、組織力を二つに分離した現在においても彼らは脅威であって、それは二つの組織(特に一方は組織というにはあまりにも歴史・規模の双方において強大である)が、その理想はともかくとしても、性格的な面においては非常に似通っていたからであり、また拠って立つものもほぼ同一のものであり、それゆえ、再び歴史的な事件が起これば、化学反応的に強大化する恐れがあるからだ。――」
サンヴァルツォは、ヤカンの蒸気が噴出す音で、タイプライターに傾いていた体を伸ばした。気づけば、市場から帰ってくる人たちが建物裏の通りを横切り、そこかしこで話し声がしている。そういった風景を窓から眺めながら、知り合いが送ってくる日本の緑茶葉が入った急須――の代わりである、茶漉し紙を上に置いたコーヒーメーカーに、お湯を注いだ。
そうして、今日一日を思い返して見ると、なんということもない平凡な一日であった。朝、最近夜中まで研究課題らしいものと睨めっこしている娘の目覚めをドア越しの音で確認して、そのまま朝食の席につき、娘が出てくるのを待って食器を手に取る。昼過ぎ前に旧知のパーリア刑事との用事を済ませ、そのまま昼食。午後に自宅に帰ってからは簡単に片付け物をして、頭の中に溜まっているものを吐き出して、現在に至る。変な経歴を持っていて、なおかつ現在は専ら暇(実際は暇なわけではないが、そう思われてしまう)なものだから、珍事が起こると相談を持ちかけられてしまう。その持ちかけられた相談のおかげで、今日は肉を食えそうにない。
そして時間のかかる料理の品目が無くなり、働き盛りであるくせに労働らしい労働をしていないことが娘に対して少し引け目に感じる部分であったから、こうして溜めておいた書き物をしているわけである。その娘もいいかげんに帰って来ても良さそうな時間だったから、彼は緑茶を一口だけ口に含むと、そのまま書き散らした書類を鍵のかけられる棚にしまった。娘が見て気分の良いものではないからだ。娘の手前やっていることとはいえ、ほとんど自己満足に近く、また娘には見せられないのだから、なんとも複雑だった。
こういうとき、書き物は気持ちを整理できてちょうど良いな、とやる気を新たにしたところで、湯呑茶碗――の代わりである、薄作りのティーカップに緑茶を注いで、一口あおった。
「こうして、茶ばかり飲んでると、呆けてしまうに違いない」
「そんなこというなら、自分で夕食の買い物ぐらい行ってくれない?」
ビエラが強盗よろしく部屋の出入り口のドアを蹴り開けたのは、二口目を口に含んだ直後だったため、サンは豪快に茶を吹いた。ちょうど窓下の通りにいた通行人が何事かと上を見上げたときには、サンは顔を引っ込めた後だった。彼は濡れた帽子を訝しがりながら、昨今の異常気象についての論文をどうまとめようかと重い足を進めていった。後日、彼は、「人類が傘や帽子を手放せば、気象に対する意識改革が成される」という一文でまとめられた論文を、友人経由でベルギーの学会に持ち込むことになる。
さて、サンはというと、一頻り咽たあと、何事も無かったかのようビエラに振り向いた。
「……おかえり」
「うん」
やり過ぎたことを自覚しているのか、ビエラは黙々とデイバックの上の方に詰め込まれた野菜や果物をダイニング兼キッチンのテーブルの上に出している。彼女はとうに、サンが片付け損なった(そもそもしまう場所が無い)タイプライターに気づいていたが、興味が無さそうな、あるいはそれを装うような目で眺めているだけで、それに関して口を出さなかった。
「君も飲むだろ?」
何のことかと思いはしたがすぐにお茶のことだと気づいて彼女が頷くと、サンはキッチンの上にもある簡素な食器棚からカップを出して、ビエラがお茶を飲んでいる間にサンは冷蔵庫に食材を放りこむと、自分も席についた。
さて、こうして親子二人が席についたは良いものの、どうしてみようもないのだった。ビエラの関心や興味は、新聞に載るような時事などは別として、専ら研究課題に向いていて、生活時間の多くがそれや日頃の学業に当てられている。サンもサンで、他人から見て面白いことをしているわけでもなく、とかく会話のタネに困る有様だ。
「今日はまだ部屋に引っ込まないでも良いのかい?」
「図書担当に頼んでおいた資料が予定より遅れちゃって、何もできないのよ」
「へぇ……どんな資料?」
「父さん、私が何の課題をしているか聞くの、何度目?」
「五度目」
あまりにすばやく答えられたものだから、ビエラはその数字が正しいかどうかは考えられず、ただ驚いた。
「なんでそんなことを覚えていて、肝心なことを覚えてないのよ」
「前に聞いたこともちゃんと覚えているさ。けど、それは私の知りたいことじゃないんだ。君は覚えているつもりなんだろうがね」
「父さんのそういうところ、あまり好きじゃないのよね。そうやってわけのわからないことを言うところをね」
多少、勢いに任せたところであるが、まんざら本音でないわけでもなかったから、彼女は苦そうな顔をして、舌に乗せたことを後悔した。基本的に彼は、彼女が本音でぶつかって勝てる相手ではない。それでもこうして時折、闊達な口を効いてしまうのは、いつだったか、たしか自分が恋なんてものを覚えたか覚えない頃だったと思うのだが、その頃を機に養父が仕事に出なくなり、急に彼の全身が見えたような気になってからだった。見えたような、と回りくどい見方をしなければならないのは、彼女自身、養父のことを全て見透かせるとは思ってもいないからで、実際、彼女が養父のしてきたことを全て知る機会は、彼の死後まで待たなければならない。
「まぁ、なんだ。夕飯が出来たら呼ぶから、それまで休んでいると良い。眠くないときのベッドの感触も、そう悪いもんじゃない」
気まずくなりかけた会話を養父の側から打ち切られてしまい、彼女は悶々としたまま席を立った。夕飯までの間に、新しい切り出し方を考えておこうという気もしていたが、ここのところ疲れが溜まっていることも確かだった。
すぐ隣にある自室に入ると、ベッドの下に幾分か軽くなったデイバッグを置き、こげ茶色のジャンバーを机の椅子に引っ掛けてから、普段ベッドで寝るときとは反対の方向に、頭を置いた。部屋に一つだけある窓から入る陽を嫌ったためにそうしたのだが、そうすると折り畳まれた掛布団を背もたれにできた。
そのまま眠っても良かったのだが、久しく干されていないシーツの感触や、ずれてしまった予定にばかり気が往ってしまって、落ち着きを手元に置けなかったから、帰路の途中、二日休みの暇つぶしと気晴らしのために買ってきた雑誌をデイバックから出して、サプリメントを口の中で転がしながら、読み始めた。
「――というわけで、これが実用化された場合、木と同じように家畜を育てることができるようになるが、それならば木を食べられるようにすべきだ」
「――この統計を見るに、水素エンジンが普及したら、資本主義諸国は空気を奪い合うようになるに違いない」
間違えた。これは教授から薦められて付き合いのために渋々借りてきたサイエンス雑誌だ。装丁やサイズが似ているので、取り違えたらしい。
「これを私に読ませて、頭を柔らかくさせたいのかしら」
柔らかくなる前に、皮肉や厭世主義で凝り固まりそうな気さえしてくるその雑誌をとりあえず枕のある方に放り投げると、今度こそ、目的のものを取り出した。
見開きにあった冬物の商品広告でため息を吐きながらも、観光地の特集やそれに合った商品の説明と写真で目を刺激していると、日本とアメリカの観光産業の比較が書いてあった。北欧を皮切りにフランスまで至った日本ブームも一息つくと、こういうどうでも良いことに記事が割かれるようになるものなのだろう。それにしても、とビエラは後ろ髪をまとめてあるところの下を指先で軽く掻きながら、視線を机の上に流した。そこには一枚の写真があって、今となっては写っている人間の大半の顔と名前がまちまちになってしまったが、何故か後生大事に飾ってあるのだった。
彼女が記憶している範囲では、この写真に写されている結婚式の新郎新婦は日本から来ていて、その関係者だった者も何人かいた、という程度だ。養父の同僚であり、自分もよく世話になったソロモン小父さんのことだけははっきりと思い出せるのだが、それに関したことですら、結婚式前後の記憶はあいまいになってしまっていた。写真に写っている自分はとうに物心がついているはずなのに、当時の記憶を代弁するかのごとく、うつろな瞳をしている。これじゃ覚えているはずもない。
いくつかある気がかりの中で、特に気がかりなのは、この写真の裏、つまり普段は写真立ての内側に隠れてしまっている部分に、「ナルバレックへ」と書かれていることで、これ――右肩上がりでどこかぎこちない筆跡――を書いたらしい養父にそのことを訊ねたところ、その名前の知人に送ろうと思ったが出しそびれてしまい、勿体無いのでそのまま置いてあるとのことだった。
もっとも、気がかりなのは、そんないわくありげな写真を自分が飾りつづけていることそのものなのだが、これについては彼女は自覚していない。もちろん、無意識の段までは上がることなのだが。
ただ、今日の彼女はこうしていて急に胸騒ぎがしたので、わざわざベッドから降りて写真立てを伏せさせると、そのままベッドに倒れこみ、枕を顎の下に抱え込んで、本格的に眠る体勢を取ったのだった。
ビエラが友人に呼び出されたのは、連休の一日目だった。この友人は大学の寄宿舎で寝食をしている、ドイツ人だった。生真面目なのは民族性ゆえなのか、はたまたこの友人特有のものなのか、判然とはしないものの、思うに、両方なのではないかとビエラは考えている。そうでもなければ、休日にわざわざ昨日渡せなかった資料を持ってきてくれるとは思えないのだった。
待ち合わせは美術館の傍のテナントに入っているカフェだったが、その友人が道の向こう側で手を振る姿を認めたビエラは、会計を済ませた。昼を過ぎて久しい時間に、規則正しい彼女が食事を済ませていないわけもなかったし、父親から細々とした仕送りをもらいながら生活している彼女に、余計な出費をさせるのは悪く思えたからだった。
「ほら、これが頼まれていた資料。どうも、搬送してきた業者の人が、いつもと違うところに置いちゃったらしいのよ。あなたが昨日帰ってから、見つかってね。あと、役に立つかどうかはわからないけど、父からも治安関連の資料をもらったから、あなたに貸すわ。返さなくても良いけど、紛失したりだけはしないでね、あなたなら大丈夫でしょうけど」
いつもより饒舌な友人に思うところはあったが、きっと何か予定外のことでもあったのだろうと自己完結して済ませた。彼女にとっては、写真立ての写真や日本の観光産業の文面、それに今週末の予定と同程度に、どうでも良いことだった。
「いったいどんなところに置いたら、見逃すの?」
「教授たちの個人用棚」
「――なら仕方ないね。好き好んであそこを見る人なんて、そういないだろうし」
専門分野以外の一般的な資料に関しては管理が一元化されているため、図書係はその役職の貧相さにしては責任が大きい。しかし、個人用の棚はそれぞれの持ち主が勝手に確認して勝手に出し入れするので、慣例として、そこは図書係の管理外地区となりかけていた。友人から聞いたところによると、その量と雑多さが最大の要因らしいが。
「いたらいたで嫌よ、そんな人」
「けど、あなたが見つけたんでしょう?」
「違うのよ」
「じゃあ、誰?」
「フェッラーラ教授。自分が薦めた本を生徒がちゃんと持って帰ったか気になって見に来たときに見つけたらしいの」
ビエラは内心、ああ、と思わずにいられない。顔にも出たらしいが、目の前の友人もどういった意味のものか勝手に理解したらしく、わざわざ聞き質してはこなかった。教授のその様子だと、連休明けにでも感想を聞いてくるかもしれない。ビエラにとっては、そちらの方が気になった。
それにしても、自分が教授の棚から彼の本を探し出したときには既に目的の資料はあったはずだが、あるはずの無いものを探せるほど、自分の無意識野とでもいえるものは広くはない。夕食時を逃して夜食を摂ることにはなったが、今更ながらに余分に眠る必要を感じた。そういえば、夜遅くに寝直した所為か朝食をあまり摂れなかった。どこか馴染みの店でこの時間帯に安くしてもらえる場所は無かったかと、頭の中で記憶の端からリストアップしていく。そのためか、傍から見ると呆けたように見えたらしく、友人がどうしたのといった主旨のことを口にした。
「お腹が空いたな、と思って」
「あなた、本当に燃費が悪いのね。さっきだって、私が来るまで甘いものを食べてたんでしょう?」
「私の頭はその分だけ馬力があるの」
「ああ、憎らしい。そのモチスベ肌も、小さい頃から美味しいものをたくさん食べて育ったからなんでしょ。まったく……」
まったく。その単語が出てから、ビエラは相方に向けていた集中力を手もとの本に割いた。まったく。この言葉を出した瞬間、彼女のタガが外れるのは毎度のことだった。現在進行形で論理もどきが組み立てられていく様はなかなかに壮観であるが、慣れてくるとそうでもない。まったく。その五分後には移民政策に関することになり、次の五分後にはファシストとイギリス人の関係についての詳細でも語っていることだろう。更に次の五分後にはどうなっているか……それは次に誕生する宇宙のことを心配するようなものだ。そういったジョークが一時期、同期生の間で語られたこともある。まったく。私はあと何分ほど、こうして路上で資料とにらめっこをしなければならないのだろうか。彼女の父親の口癖も、きっとこうに違いない。
「まったく」
鑑識が引けた後の現場で、彼はかぶりを振った。以前は……といっても大分前になってしまうが、妻が手洗いしてくれていたハンカチを鼻にあてても、血の臭いが突き抜けてくる。乾いて久しいというのにこれだけの臭いがするのは、季節がらだろう。この調子では休みを利用して娘のところに行くのも無理に違いない。人並みでしかない体格が重く感じられるようになってからは、タイトなスケジュールも能動的にこなそうとは思えなくなってきていた。
「これならチーズの『利き』の方がマシですな」
「先日、娘から送ってきたものがあるが、あれはどうも抜けていてな。どこでなんというものを買ってきたのか、手紙にも書いていなかった。そのくせ、印の無いピースなのだから始末が悪い」
傍らにいる部下と話をしながらも、彼は見るべきものを見、取るべきものを取っていた。遺体の後にある窓は割れ、被害者の赤味を増した頭に破片が散らばっている。イチジクを指で強く押してやると、ちょうどこんな感じになるのではないか。指先が痒くなる感じがした。被害者が突っ伏している机の上、水差しの傍には、ちょうど親指ぐらいの大きさの穴が空いていた。遺体を貫通した弾丸がそこに埋まっていた。この程度の大きさの弾丸でも人は死んでしまうのだから、速度というものは恐ろしい。これは、何度確認しても飽きることの無い、事実だった。
「しかし、おわかりになった?」
「従兄弟があちらで官吏をやっていてね。その伝手なんだよ。あれをあちらへやれたのは。私も小さい頃はあちらで伯父の世話になった」
手に取った書類には血糊があまり付いていなかった。見たところ、寄付金に関するものらしい。勿体無い。この男があと一分殺されるのが遅ければ、寄付金はちゃんと相手の物となっていただろうに。金額が金額だ。きっと、彼はこの机に座り、長いこと考えていたことだろう。夜が深けてもなお、ここで葉巻の煙をくゆらせて、落ち始めた整髪剤の粉を気にしつつ、書類と向かい合っていた。それほどに、この相手は大事だったのだろうか。
「そんなあなたが、今は刑事をやっている」
「そう。大学を出てまで就いた仕事がこれだ。ポーランド育ちの親父は人が変わったように怒ったさ。ドイツの警察に良い思い出なんてないからな。だが――」
「意外な人物が助け舟を出してくれた。それがその伯父様だった。違いますか?」
「ああ、君には何度も話したな」
更に手を動かすと、蓋の開いた書類入れの中から、今見た書類に似た内容のものがわんさと出てきた。送り主や内容は全く違うものだが、中には聞き覚えのある会社のものもあった。気になったのは、イタリアのものらしいがどうも一般的でない名前のサインがあったことだ。もしかしたら向こうでは変な流行りがあるのかもしれない。その綴りをメモして――娘に手紙を出す口実にしようと思ったのだ――、先ほどのものをそこに入れなおしてから、相方に書類入れを渡すと、彼はその意図がわかったらしかった。
「残念ですな」
「何がだい?」
既に机に向いていた上司は、また部下へと振り向いた。彼は「話好き」の類ではなかったが、誰かが口を開けば、必ずそれに反応する。ただし、仕事の邪魔にならない程度であれば、という前提が必要である。
「被害者が生きていれば、とまでは言いませんが、せめて秘書の一人でも雇っていてくれれば、この書類の細部まですぐにわかったでしょうから」
「すぐにわかったことが全て正しいとは限らないさ。それに、私はどちらかというと、こういった現状の方が好ましい。ああ、別に変な趣味があるわけじゃない。やり方の問題だな」
ただ、秘書の一人でも、という部分だけはその通りだと思えた。そうであれば、胃を落ちつかせる飲み物ぐらいは待合室で出してくれただろうから。
「こういった現状、ですか」
「そうだな……関係者が来てぎゃあぎゃあ騒がない、あることないことを捜査関係者に推理させない……そんな現状だね」
「探偵小説のファンは読むのを止めそうですな」
「あれは読者に対して腰を低くしなければそもそも売れないし、読んでももらえないからね。けど、曲げられた腰で全てが見とおせるほど、事件の目線は低くない。第一、事件というものは、見たものが全てだ。例えば、君に渡した書類だってそうだ。そこに書かれたことが全てさ。仮にAという団体とBという団体があったとして、Aはすんなり寄付対象となったが、Bは何故か――寄付する当人にはちゃんとした考えがあるとするが――断られたとする。ほら、これで寄付する当人とBの間にいざこざがあってもおかしくないだろう。推理というのは事実を踏み台としなければならない。ハナっから推理するために事実をでっち上げるんだから、小説というのは始末が悪くなる。まぁ、読者を如何に混乱――読者はそれを魅力だとか言うわけだが――させるかが肝なわけだ。もちろん全てがそうとは言わないがね。他には……そうだ、あの遺体を見てみろ。中に弾丸が埋まってるならまだしも、あれでは、ただの汚いひき肉を乗せた人形だ。せいぜい、いつ、どこから、どのような角度で撃たれた、ということしか立証できない。だのに、意味ありげに、儀式的な状景を引用したりする。事実ではなく、比喩に重きがあるわけだな。だから、文字で事件を描写すること自体が無駄な挑戦といって良い。まだ板に水をぶっかける方が、頭が冷える分だけマシというものだよ」
ついでに言えば、報告書ばかり読んでいる連中も無駄だな、といった具合にまとめて、何に対してか頭を横に振った。
「その通りだとすれば、我々は非文学的な作業をし続けなければならないことになります。それに、どこぞの悪辣なやり口の文士が、あなたが今に言ったことと似たようなことを書くかもしれない。いや、とうの昔に書かれてしまっているのかもしれない。そうしたら、我々は悪玉ですよ」
「その方が良い」
「何故です?」
「私が文系を嫌いだからだ。よって、文系に書かれたような我々も嫌いだ。だから、非文学的な作業を行って、読者に嫌われなければならないわけだな。そうすれば、少なくとも、始末は良くなる」
そこで会話が区切られたことに部下は気づくと、すぐに事後処理のためにチェック表に記入をしていた者に書類入れを渡し、未だハンカチを手放さない上司に、微笑んだ。
「して、その非文学的な作業は今回も通じますか?」
「そうだな、しいて言えば、未来を見なければ無理だ。この一件だけではとてもなぁ。どうせ、あの書類を調べるのも間に合わんだろうしな」
「連続性、あるいは一貫した計画性のあるものだというように取って構いませんか」
上司はそれに頷く。下手に鼻が良いとこういうときに困る。耳が良い友人は小さい頃、両親が喧嘩する声が遠くからでも聞こえて鬱病になりそうだと言っていたが、大げさな、といって笑えたのはあの頃だけだった。
「かといって、むざむざ次の事件を見過ごすようなこともできん。管区内の担当者に連絡して、必要であれば仕事上の付き合いのあった者を見張ってくれ」
「わかりました。それと、犯行や被害者の詳細についてもプロファイルを含めていくつかパターン化したものをリストアップさせればよろしいですね。ついでにICPO(国際刑事警察機構のこと。蛇足であるが、これ自体は刑事組織ではない)にも資料を送っておきます」
「まったく……」
「どうしました?」
「君はどうしてそう丹念なんだ。それとも、君の世代は皆そうなのかい?」
「あなたの下で五年も働けばこうもなりますよ。それに、あれだけ『小説はやくざだ』とぶっておいて、今更世代が云々言うのは、つじつまが合いません」
部下は素っ気無くそう言い切ると、二三の確認を取って、その日はすぐに署に戻った。その翌日には棚上げにされていた事件の手がかりが掴めそうになり、七月に入ってすぐに起こった先の事件は、大方の担当官の頭から忘れられた。そういった流れの中で、彼の親愛なる上司、トマシュ・マティセク警部が本件のことを思い出したのは十一月が終わろうという頃だった。
その日、マティセク刑事は珍しく電子メールという形で送られてきた娘からの手紙を仕事場のパソコンで読み終えると、資料課の知人にコーヒーを持って会いに行った。
彼が勤めている五階建ての署全体で考えると、入り口傍のロビーではなく、廊下突き当たりの階段を二階に上がり、署正面へ向かって半分ほど来た所にある。あまり人通りがある場所でも困るが、火事などの際にすぐに持ち出せないようでも困るということで、このような位置に資料課はある。もっとも、今はほとんどの捜査資料がパソコンに打ち込まれ本部との間で常時バックアップを行ってもいるから、単に面倒な位置にあるだけという状況だった。
彼は課というよりは個人用のオフィスのような間取りの資料課に足を踏み入れると、未だ残っている何百という数の手書きのファイルが積め込まれたフォルダなどを見遣りながら、目的の人物がいるであろう、奥まった場所にあるデスクへと向かった。彼が、いますか、と声を出すと、返事が返ってきた。
「ミルクと砂糖は――」
「三対一に限る」
「そのとおり」
太りますよ、と告げて、彼はかつての上司の前にコーヒーを置くと、自分も引っ張り出してきたパイプ椅子に座った。
ヴァール氏は未だ健在で、老いは認められても衰えのようなものは微塵も感じさせなかった。本来ならとっくに年金をもらってのんびりできそうな身分なのだが、人員補填が予算の関係で間に合わず、その上、奥さんにボケ防止を訴えられ、こうして、もごもごと口を動かしながら、資料を相手にしているのだった。昔から、老眼以外では視力の心配がいらないと言っていただけあって、眼はしっかりと対象を捉え、鼻には深い傷がある。この傷の由来は署内でも知る者はおらず、あるいは知っていても喋らないのかもしれないが、謎であり、マティセクも例に漏れない。あれはユーゲントにいたときにベルリン攻防で負ったものだとか、壁を越えたときのヘマで有刺鉄線に引っかかったときのものだとか、好き勝手に言われているが、どれもが信憑性に欠けるし、ジョークとしても大したものではない。
「それ以外は飲まないと言って、よく私を困らせましたね」
「お前が困ったときにここに来るのは、その頃の習い性ってやつなんだな、きっと」
「その度に私は思うんですよ。私を一番困らせるのはあなたなんじゃないか、って」
「それはな、お前が俺を困らせたからさ。お前がいなくなってから、俺がここに送られてくるもののほとんど全部を取り扱うハメになったんだからな」
自分で持ってきたコーヒーを口に含みながら、それとなくあたりを見回してみると、なるほど、以前に来たときと、資料の量は大差無い。この署に赴任して最初にここに訪れたときに見かけたファイルまである。統合後のどさくさで誰が管理するものだかうやむやになったものも多く、整理する権限が無いのだ。閲覧する権利は誰にでもあるのだが、そもそも閲覧するような人間がいない。つまり、底にたまった泥をすくわずに川を綺麗にしようとするのが、この仕事なわけだ。下手に泥に足を突っ込むと、溺れ死ぬことにもなる。そういった、神経質でない程度の几帳面さと慎重さが要求されるのだから、人材に困るのも仕方の無いことだろう。
「今度、若い奴で良いのをこちらに回しますよ」
「馬鹿。人に『こいつは使える』って思われる奴がこんなところに来るかよ」
「それじゃ、使えない奴を」
「それは困る。お前が使えないと思った奴は本当に使えないからな。お前は、俺が使えると思ったから、使えたんだ」
「……まったく」
思えば、嫌っていた父親の口癖を自分が使うようになったのも、この人の影響だったのかもしれないと考えつつ、彼は用件に入ることにした。
「あなたはたしか、出版関係のアドバイザーもしていらっしゃいましたよね」
「ああ、PLOが騒がれていた頃、空港警備関連に回されていたからな。同時爆破テロ以来、公開可能な範囲で好きにやらせてもらってるよ」
「よくそんな時間が取れますね」
「歳を取るってのは、時間を上手く使う方法を覚えるってことさ」
「いつ死んでも良いように好き勝手に生きる、の間違いでは?」
「まぁ、俺の話はそれくらいにしてくれ。なんだって仕事場でまでカミさんと同じコトを言われなきゃならんのだ」
ついニヤついてしまった口元を正して、話を元に戻す。話し相手に困っている人間の話に付き合うと、ろくなことがない。
「娘から治安関係の資料を送ってもらいたいと言われましてね。適当に見繕ってもらえませんか」
「シャーリーンがそんなもんを必要とするなんてな」
妻が死んで以来、娘の名をあだ名以外で呼ぶのは、身近な人間では目の前の老人だけになってしまった。妻はよく、「例えどんな名だろうと、それをきちんと呼ばないのは不敬だ」と、珍しく講釈ぶったものだった。そんな妻の反応が見たかったからなのか、ただ自分が呼び易かったからなのか、娘が生まれてからずっと、シャーリーと呼んでいた。どうにも、音が高くなってしまうのが耳障りだったのだ。いつかそういったことを老人に話した。彼はきっと覚えていることだろう。自分より頑固なこの老人は、それ以来、ずっとシャーリーンと呼ぶ。自分で記憶している範疇では、それまでは彼は別にどちらでも良いといった感じで、気分任せに名を呼んでいたから。
娘の名前のことばかり考えていた所為か、自分の名が呼ばれていることに気づくまで、しばらくかかった。そこに来てようやく、質問の答えを迫られていることを思い出したのだった。マティセクはもったいぶったようにコーヒーを飲んでから、答えた。
「どうやら友人に頼まれてのことのようです。以前、社会学部に親友ができたといって、写真を送ってきましたから」
「こっちじゃ全然友達ができなかったんだろ?」
「あれは私に似ましたから」
「おいおい、そんなこと言ってたら、お嬢ちゃん、帰ってくるものも帰ってこなくなるぞ」
「良いんですよ」
「カミさんが亡くなったからって、何もそこまで達観せんでも良いだろう? 親はもっと我侭なぐらいでちょうどいいんだ。娘は俺のもんだ、ってぐらいでないと、な」
「あなたはやっぱり私を困らせる」
「困ってるのはお前じゃない。お嬢ちゃんだよ。家族に対してきちっとした価値観を持たないまま、お袋さんは死んで、そのままあっちに行っちまったんだ。何かの拍子に、もやもやしたもんが噴き出たらどうする?」
家族の中で産まれたものは、一生、家族のことを考える。だからこそ、家族は一緒にいるべきなのだ。こんな風に、妻は家族のことになると、先ほどの件でもそうだったが、講壇を叩いた。叩くだけ叩いて、彼女はさっさと死んでしまった。卑怯だ。何度かそう思った。そういうとき、娘は必ず傍らにいて、自分は慣れない深酒をやっていた。連続した日常が、一時に思い返された。娘にとって、その日常は連続したものだったのだろうか。一緒にいない家族について、いくら考えても答えは出そうになかった。
老人は何時の間にか吸っていた煙草を吸殻まで吸い終えると、顔の傷の縁を指でなぞった。
「……少しばかり出過ぎたな。頼まれ物は来週までに揃えておいてやるから、こっちにお嬢ちゃんのアドレスが記載されたメールを転送しとけ。若い娘の返事ってものを一度、楽しみにしてみたかったんだ」
転送、とだけ手帳に記して、マティセクは席を立った。老人とはそのまま昼食まで付き合うことになったが、お互い、信じられないほど、無言だった。
ヴァール老と署の入り口で別れると、彼は同僚に呼び止められた。局長が探してたぞ、とだけ告げると、彼はマティセクと入れ替わるようにして昼食に向かった。マティセクはというと、手洗いで顔を洗ってから、局長室に入った。魚料理にふりかかっていた野菜のかけらが、歯に残っていた。局長が用件に入ってからは、それも気にならなくなった。
「イタリアですって?」
「ああ。一応はラツィオ(ローマのある州)なんだが、ラクイラ(半島中南部、ラツィオ州の東、アドリア海に面するアブルッツォ州の州都)に近いな。状況によっては、三州をまたにかけるかもしれん。とにかく、位置が微妙でな」
渡された書面をもてあますように宙で遊ばせながら、彼は問題の整理が必要なのだと理解した。そして同時に、自分は何故に理解する必要があるかということに戸惑ってもいた。
「しかし、たかだか善良な資本家一人の殺害にしては、コトが大きすぎやしませんか」
「二人だ」
「二人? また出ましたか。私の耳に入っていないということは……やはり、その二人目はイタリアで、ということですね」
「そう、今回の捜査協力はその二人目に関することなんだ。だが、二人目だろうと三人目だろうと、資料だけならともかく、人手まで貸すなんてのは不自然だ、と君は反論するだろうな」
「その通りです。ましてや、あちらには憲兵がいる。そんな協力要請をしてくるわけがない」
「しかし、現に協力要請はあったんだ」
「お国の厄介者のような台詞を言って、誤魔化さないでくださいよ」
実際、彼にとっては局長が厄介者のようにすら思えていた。位置が微妙なのだ。具体的にどのような協力が必要か知らない現在の自分が、問題とするのは、いや、できるのは、その一点のみだった。
局長は薄くはない頭を掌で撫でつけると、葉巻に火をつけた。
「なぁ、マティセク。たまには私の愚痴でも聞いてくれないか」
マティセクは古巣に戻ってくると、部下がキーボードを叩く音を聞きながら、既に決まってしまったことをどのように整理するかという段階に思考を移していた。途中、別の課の見知った顔の何人かが、からかうような素振りを見せては、それぞれの仕事に戻っていった。同期の者はマティセクの進退問題まで心配したが、そんな話じゃなかったさ、と追い払った。今の彼には、好意すら煩わしかった。
「報告書を読む人間は無駄じゃなかったってことですな」
「まだそんなことを覚えていたのか?」
「私はしつっこいですよ」
「よしてくれよ」
部下の悪意、というよりは無邪気な言葉を流しながら、キーボードの音が止まったと同時に、背けていた顔をパソコンの画面に向けた。
ICPOへの問い合わせのために開かれたドキュメントには、ひねり気の無い題名と日付、それに補足事項が表の中に連綿と収まっていた。その中にいくつかのキーワードと共に、彼の確認した例の事件の報告書の名称があった。
「照会したのはこのときか」
「それで、このときに同席していた捜査官が自分が担当している事件との共通点を認めた、という流れのようです。担当官は……パギラ、で良いんですか?」
いや、パーリアと読むんだよ、とマティセクは言うと、ため息をして、腕を組んだ。
「電話で済ませられないものか」
「無理でしょうね。第一、国際電話の経費って結構な額になりますし」
「無駄に電話するんだったら、とっとと行って来い。それでダメならけじめがつく、とまぁ、そういうわけだ」
「なら気楽なもんじゃないですか。懐かしの青春時代を過ごしたところですし――ああ、そういうことで」
「ヴァールの爺さんが、ざまをみろ、とでも言いそうだな」
「そちらは私がお相手するので、安心して行ってきてください。土産は、あちらの素敵な女性の電話番号の書かれた名刺を希望しますよ」
お前には娘の電話番号だろうと教えてやるものか。ちくしょう、帰ってきたらお前の転属願いをでっち上げてやる。そう決意して、マティセクは娘へ一報を伝えるため、電話の受話器を手に取ったのだった。