第十二話「蚕録 kaikoroku」
秋葉お嬢様の言い分は私にもようくわかっております。ようやく帰ってきたと思った坊ちゃんがまた出て行かれて数年、お嬢様がどれだけの心労に耐えているのか、お家のことはあまり知らない私にも、わかるほどでした。なんせ私ときたら、お屋敷に呼ばれていないときは他のお客様のハイヤーを勤める身です。そのような私でも、お抱えとして重宝していただける、それだけで私は生涯の名誉なのです。しかし、だからこそ私は車のことに関しては全責任を負いたいのです。こちらに伺うときには事前に手提げ鞄の中から整備道具を出しては簡単ではありますが点検をさせていただいております。ですから、どうかそのような我儘を仰らないでほしいのです。いえ、もちろんそのようなことを申し上げることができる身分ではないのは承知しております。しかし、しかし……ああ、やはり駄目なのですか。いえ、私も琥珀さんを信用していないわけではないのです。私にもまかないを都合していただけますし、何より気風がよろしい。ただ、人を悪く言わない、思わないという点では翡翠さんの方が……いえ、そうではなくてですね、そう、運転なのです。――車の。
「そう私は必死に頼んだのですが」
「……いえ、事情はよくわかりました。私も腹を決めましょう。それで、田中様はこれからどうなさられるのですか」
「急に予定が空いてしまいましたから、どうしようも。いえ、お嬢様からはキャンセル料までいただくことができましたから、それは良いのですが、この歳になるとぶらりと出先で暇を潰そうなんて粋なことはできやしません。そうだ、墓参りにでも行こうかと」
「たしか奥様はご存命だと聞いておりましたが」
「いえ、孫のなのです。それも姉妹二人が同時期に亡くなりましてな。あれは七年も前だったか。そう、通り魔事件の頃ですな。どうもあれにやられたらしい。娘夫婦の手前、あまり墓に行くとも言えませんでなぁ。出たついでに、このまま行って来ようかと思います」
「これは失礼しました」
いやいや、と置いてから田中は続けようとしたが、以前そう呼んでいた「翡翠のお嬢ちゃん」という呼び名を言いかけたため、「翡翠さん」と言い直してから、続けた。
「気になさいますな。私はね、あなたがた御姉妹がそういう顔をなされるのは見たくないのです。これは私が勝手に喋っているだけなのですよ。孫二人も順調にいっていれば今頃はあなたがたぐらいの年頃です。せめて、そういった方々が笑っておられるのを見るのが、孫を失った私のような者には慰め、いや、幸せとなるのです。正直に申しますと、先代がお亡くなりになったとき、ああ、あれも七年ぐらい前でしたか。そうだ、先代が亡くなって直ぐ――いや直後といっても私の頭ですから、もう少し間隔はあったと思いますが、孫二人が亡くなったのです。それで、私は辛くなりましてね。こちらでのお勤めを他の者に任せようかとすら思ったのです。いえ、現にその旨を書いたお嬢様宛の手紙もあったのです。しかし、娘夫婦の辛さを考えたら、私がしっかりしなきゃならんと思い直したのです。坊ちゃまにも励ましていただきました。何より、あなたがた御姉妹がその頃から、こういっては失礼かもしれませんが、急に闊達に見えるようになりました。それでです。私がこちらでのお勤めを続けようと思いましたのは。以来、清清しい心持でこちらにお勤めに来させていただいておるのです。今では正行君もおります。はあ、それだというのに」
田中は翡翠から目を背ける。その先には秋葉と琥珀がいたので、田中は申し訳なさそうなお辞儀を首の上だけでした。翡翠は思う。この方はいつからこんなに腰が低くなったのだろうか。それは色んな負い目を感じて、それでもなお土俵際で踏ん張っている、田中自身の矜持から来るものなのだろう。聞くところによれば、志貴の出奔を手助けしたのも田中らしいし、他人から見れば痛々しく思えても、彼自身は意外と楽しでいるようにも思える。そういえば、坊ちゃまに励まされた、というのはどういうことだろうか。いやまて、そもそも、何故に田中は志貴の手助けをするほどに志貴との仲が良くなったのだろうか。そんな関係を築けるほどの時間は無かったはずなのに。敷地内の紅葉も終わり、灰色がかった木々の頭がガサリガサリと風に揺られている。足元の土は朝に霜が降りたためか、艶やかだ。翡翠は一度逸らせた目を田中に向けると、頭の中の混乱を強引に鎮め、声を出した。
「そうお気になさらないでください……ああ、これではお互い様ですね」
「全くです。さて、そろそろ出発の頃合です。くれぐれもお気をつけて」
「そちらこそ」
「いや、私は電車で行きますですよ。長年、こういう仕事をやっておりますとね、自動車が怖いのです。怖くなったのです。ですからお勤め以外では極力、運転は控えておるのです。おかしな話ですが」
「いえ、おかしなことではないでしょう。怖さを知らなければそれを御すこともままならないと聞いております。そう自嘲なさらずともよろしいのではないでしょうか」
「そうでしょうか、いや、そうですな。御気を煩わせて申し訳ありません」
「いえいえ……それでは私はこれで。宅の息子が帰ってきたら、また遊んであげてください」
「はい、よろこんで」
翡翠の息子である正行は、幼稚園が無い日は翡翠と一緒に屋敷に来ている。そのとき大概は琥珀が構ってやるのだが、さすがは親子なのか、楽しめる内は良いものの、琥珀のやり方にはどうにも馴染めず、限界を超えると、車で某かの手入れをしている田中のところに逃げ込む。その都度、田中は仕事の邪魔をされたというのに嫌な顔一つせず、むしろ嬉しそうに、車はどうして走れるのか、どうして運転手になったのか、そういった無邪気な質問に答えては、正行をあやしてくれている。最初の内は翡翠も田中に申し訳なかったのだが、次第に正行も田中を見よう見まねで彼の手伝いをできるようになってくると、その都度に謝辞を述べるようなことは無くなった。そんな彼の墓参りが、どうか心安らかなものであることを祈って、翡翠は琥珀の運転する車に乗り込んだ。
出発して二十分ほどすると、秋葉と翡翠の間での口頭による手元の予定表の最終確認も終わり、その様子を耳で確認していた琥珀が軽口を叩く。
「はあ、翡翠ちゃんは長話ですねぇ。私とはあんなに長く喋ってくれたこと無いのに」
あんなに、というのは、先ほどの田中との会話のことを指しているのだろう。翡翠も長話であったということは自覚していたが、有意義なものだったとも思っていたため、角が立つ。
「長話になったのは姉さんの所為です。それに、田中様とは話していて気が楽になるんですよ」
「まるで何もかも私が悪いような言い方ですね」
「姉さんが突然に車の運転をするなんて言い出したんですから、悪いのは姉さんです」
「突然じゃありませんよ。三日前までには秋葉様に伝えておいたんですから」
「秋葉様、本当なのですか」
たとえそれが真実だったからといって、その我儘が通されて良いことにはならないのだが、翡翠は半ば琥珀への追及を諦めてしまった。一度でも話が逸れれば、琥珀はそのままその会話を発展させてしまうだろう。それを無理に修正してまで追及を続けるつもりは、翡翠には無かった。現にこうして琥珀の運転する車に乗ってしまっている以上、余計な気を遣うのは得策とはいえないように思えたからだった。だからこの確認は、あくまで事実関係をはっきりさせることが目的。それは秋葉もわかっていた。その秋葉はというと、自分に回ってきた鉢を後部座席で憮然として受け取ると、少なからずこみ上げてきていた車酔いを我慢しつつ、翡翠に答えた。
「困ったことに本当なのよ。ちょっと手紙のことで考え事しててね。すっかり忘れちゃってて。田中には悪いことをしたわ」
そう言いながら、秋葉は運転席後ろの座席で、シートベルトを緩めようと手先を動かしていた。翡翠はその様子を眺めながら、秋葉のそういった不満げな仕草は彼女にはよく似合う、などとどうでも良いことを考えつつ、気になったことを口に出した。
「手紙ですか」
手紙自体は屋敷においては珍しいものではない。翡翠自身、秋葉に頼まれた封筒の束を郵便局まで届けたことは数え切れないくらいある。しかし、そのようなものだからこそ、秋葉が考え事をするほどの手紙というものが気になった。志貴への国際郵便のことかとも思ったが、それも無いだろう。つい先日、返事が届いたばかりなのだから。なんにしても、
「翡翠は気にしなくて良いことよ」
こう言われては、翡翠は引き下がるしかない。そんな翡翠を見たためか、秋葉は歯切れの悪さを覚えた。後部座席中央に設置されたパネルテーブルからお茶を取ると、そのままそれを喉に流し込む。琥珀は傍から楽しげに様子を伺っていたのだが、ようやく、口を挟んだ。
「秋葉様ぁ、最近、口が軽くなられたんじゃないですか」
「兄さんやあなたのおかげで頭が重いから、口だけでも軽くしたいのよ」
「私はともかく、志貴様はその逆ですねぇ」
「ん、ああ、口が重くて頭が軽いってこと? その通りかもね」
「姉さんの場合、どっちも軽いような……ひゅわあ」
琥珀がシフトチェンジをミスして――狙った可能性は高い――カーブ途中で加速したため、翡翠がドアウィンドウにへばりつくことになった。いまどきなんでこの車はセダンでマニュアルなんだ、などと翡翠が思ったかどうかは定かではない。
「翡翠ちゃん、何か言いましたか」
「翡翠の悲鳴って、何かおかしくなかった?」
「あ、秋葉様っ、私も後部座席に行ってよろしいですか」
この運転手が乗る車において助手席ほど恐ろしい座席はないだろう。左を向けば山中の崖下に綺麗な川面がこっちにおいでとばかりにちゃわちゃわと流れているし、右を向けば憑き物じみた表情の運転手がわなわなと腕を震わせているのだから。
「だめよ。あなたまで後ろに来たら、誰が琥珀の運転を監視するのよ」
「私、運転のことなんてわかりませんよ」
「琥珀の顔を視てれば、何をしでかそうとしてるかくらいわかるでしょう」
「そんな無茶な……きょがっ」
後ろの秋葉に向かっていた所為でシートベルトが緩んでいたため、翡翠が変な角度でダッシュボードに頭を突っ込ませる。ブレーキを余分に踏み込んでリヤを浮かせた張本人はというと、はぁはぁと危険な吐息を出しながら、谷間を駆け抜けるのに執心している。
「ああ、癖になりそうです」
「はあ、田中の有難さがよくわかったわ」
翡翠が夫と息子に心の中で別れを告げようとする直前で、ようやく、車は峠頂上にある休憩所兼ペンションらしい家の駐車場に滑り込んだのだった。彼女がほっとできたのも一瞬のことで、車から降りて件の建物の中に入り、コーヒーを頼むと、即、田中と何を話していたのかという話題になった。翡翠が秋葉や琥珀の人格的な部分を端折りながら、孫二人が無くなった云々の要点だけを伝え終えると、秋葉はテーブルに頬杖を突いてそれ聞いていた。窓際のテーブルの席からは名前は知れない山の頂上から谷の下までが見渡せて、川を遡れば他県との県境手前のダムへと至る。こうして眺めている分には怖いどころか悠然とさえ感じられるのだから、翡翠にはなんだか自分の感覚が信じられなく思えた。感覚絶対主義(そんな言葉は無いのだが)である琥珀にそのようなことを言おうものなら、話は脱線の挙句に対抗線路の電車にぶつかりかねないので、翡翠は何か言いたげに開きかけた口を閉じて、窓の外から中へと視線を移した。
「土砂崩れが起きようものなら、間違いなく死ねますねぇ、ここは」
「姉さんと違って、私は別にそんなこと思ってませんよ」
「あら、そうでしたか」
秋葉は琥珀の冗談は一切耳に入らない様子だった。
「田中の孫……そうか、苗字が違っていたから今まで気づかなかったけど、あの事件の被害者ね」
「よくそんなこと覚えてますねぇ」
「事件の被害者って……。田中さんはそんな風には仰っていませんでしたけど」
「兄さんが随分熱心だったから。あの事件は秋だったけど、翌年の夏に忙しくなるまで、暇が出来れば関係者を洗い出してたわよ。卒業して旅立つまでに至っては、とうとう警察でしか把握していないようなことまで調べ始めたわ。私にはばれてないと思ってたんでしょうけどね。兄さんが目を通すようなものは全部私が発注してたものなのに。本当、馬鹿なんだから。田中が事件との関連性に気づかないのは当然よ。いえ、気づいているけど、考えないようにしているのかもしれないわ。なんにしても、その二人は通り魔の犯行ということにはなっていないの。殺され方が違っていたからね」
「なんでそんなことを志貴様は」
ふん、と秋葉は息を捨てる。
「どうせあの似非耶蘇に感化されたのでしょう? そうでなければ……そうね、自己満足でしょうね。馬鹿よ、本当、大馬鹿。旅立つまでにできることを、なんて思ってたんでしょうけど、だったらなんで私たちに――」
「秋葉様」
琥珀の一言に、秋葉が弦の張りを解いた。
「それで、結局、志貴様は調べて、どうしたんでしょう」
「さあ」
「さあ、って……先ほど、全て関知している、と仰ったではありませんか」
「ねえ、翡翠。なんで平和のための理想を唱える人はときに残酷なことをしてしまうか、わかる?」
「それこそ、さあ、です。第一、それは詭弁なのではありませんか」
「詭弁ねぇ。構わないじゃないの。私が言いたいことを伝え易いようにしているだけなのだから」
琥珀は口を挟まない。どうでもいいのか、全てを知っているのか。無邪気な顔をしながら菓子を摘んでいる顔からは見当もつかない。秋葉と翡翠の問答は続く。
「答えは、優し過ぎるからよ。優しいことしか相手にしたくないのに、それができないとなると、不器用なことしかできなくなるの。言い換えれば、優しいことしかできない不器用な人とも言えるわね。まぁ、その不器用でワリを食う人にしてみたら、堪ったものじゃないけれど、それが良いという人もいるのよ。もしかしたら、そんなことをいう人たちの方が、余程、身勝手で、無責任で、残酷なのかもしれないわね」
「それは誰と誰のことを指して仰っているのですか」
「どうしてそう思うの?」
「いえ、見てきたような口ぶりでしたから、つい」
「そうね、見てきたわね、ずっと」
秋葉は頬杖を突いていた。窓には自分が映りこんでいる。もう一人は……どうしているだろう。琥珀が出発を促すまで、秋葉はそうして、窓とその向こう側を眺めていた。
ここは静かだろう。ここには、俺の親父もお袋も眠ってる。お前たちが生まれる前には死んじまったけど、そっちじゃどうしてるんだ。曾孫だ曾孫だ、ってな風に可愛がってもらえてるか。いや、親父は酒癖が悪くて、お袋によく当たってたからなぁ。地獄かもしれねぇな。ここは少し遠いけど、お前ら、あの町は怖いだろう。嫌なことがあった場所だもんな。おうおう、こんなに綺麗にしてもらって。坊ちゃんには感謝せにゃ。放っておいたら半年もすればここは草だらけになっちまうからな。本当なら俺がしなくちゃならんのに、すまんな。ダムさえできなけりゃ、俺もここにいたかもしれない。そうすりゃ、お前らもあの町に住まなくて済んだのかもしれない。ああ、爺ちゃんは馬鹿だよ。そんなこと考えても仕方が無いのに。あの町にいなけりゃ、お前らの母ちゃんが旦那に出会うことも無くなっちまってたかもしれねぇもんな。
それにしてもここは鴉が多いんだな。気味が悪いくらいだ。でもまぁ、住めば都とも言うし、優しかったお前らのことだ、こいつらとも仲良く笑えているんだろうな。しかし、糞が無いってのはどういうこった。随分、行儀の良い鴉なんだな。うへえ、なんだこの刈り方。なんぞ、凄い機械でも使ってるんか。まぁ、坊ちゃんの知り合いのすることだ、不思議なこともないんだろう。ん、その坊ちゃんに会いたいってか。今度、帰ってきたらまた一緒に来てやるから、待っててくれな。
おっと、そろそろ帰らないと、夕飯に間に合わないな。いや、折角だから、駅弁でもたまには食べながらのんびり帰るのも良いか。美味かったら、今度、仏壇に供えてやるからな。そういや、婆さんとは駅弁食ったことなんてあったかなぁ。うん、そうだな、今度は一緒に来るさ。ああ、駅弁持ってな。お前らも仏壇まで取りに来るのは面倒だろ。そうだよな、ここはやっぱり遠いよなぁ。
ああ、ああ、可哀想に。俺は、俺は、何も。――
「もういいよ」
「ん、そうかい。これ以上は立ち入るもんじゃないからね。――アンドラス」
そういってソロモンは自分の影の中に佇んでいた使い魔の一人を下がらせると、普段はプロジェクターとして使っている垂れ幕から、映像が消えた。じかに頭に響く音も止む。目の前にはもう、泣き崩れる老人の後姿は無い。部屋に残った痕跡といえば、鴉の羽ぐらいだった。志貴はソロモンの使い魔は四匹だけかと思っていたのだが、実際は数知れずいるようだ。あまり知ろうとすると余計な火の粉が降りかかりかねないので、志貴は聞かないようにしている。窓にかかったカーテンの間からは既に朝日が差し始めている。志貴は明け方に起こされたときのまま逆立った髪の毛を触りながら外を見遣ると、背伸びをした。
「なあ、ソロモン」
「わかってる。この件が片付いたら、一度、行ってくると良い。今年の夏には帰れなかったからな」
「俺もお前さんの使い魔みたいに、好きな所に行けたらなぁ」
「好きなところ、というわけじゃないさ。幾つかの条件が必要なんだ。それも、使い魔ごとに、ね。あそこは幸運なことに、君から聞いた限りの内容ではあったが、全ての条件が、好ましい状態で満たされていたのさ。そうだね、さながら、祝福された土地というやつだな」
「仏教のお墓が祝福された土地? 冗談みたいだ」
「いや、古今東西、祝福される土地の条件なんていうのは、似たようなものさ。儀式の形式や思想の構造が違うだけでね。だからこそ、こんな街でも、やろうと思えばできるさ」
「じゃあ、なんで昨日、それをやらなかったんだ」
「ケネスがいたからな。下手をすれば、あのガタがきてる建物が崩れかねなかった。今日の現場付近なら、できるかもしれないな」
「ふうん。それで、身体はもう良いのか」
「ああ、今日の仕事には支障は無い」
支障は無いどころか、ダメージ自体、ほとんど無いに等しい。身体自体が頑丈なのだから。しかし、神経はそうはいかない。プロレスラーがタフなのは、肉体もさることながら、日ごろからダメージを肉体に与えることによって、神経を馬鹿にしているからだ。ソロモンの場合、そういった鍛錬はしていない。する必要が無かった。だから、ああいった不測の事態には困ることが多い。庇う、などという行為を自分がするようになるとは、考えてもみなかった。ソロモンがにたにたと口を曲げてそのことすらも楽しんでいると、志貴が何を勘違いしたのか、労いの言葉をかけた。
「悪かったな、付き合わせて」
「構わんさ、私は寝る必要がほとんど無いからね。それに、君が私の代わりに張ってきた結界に反応があれば、君に尋ねるのが筋というものだろう?」
「代わりっていったって、俺が無理に頼んだんじゃないか」
「まあ、要するに暇つぶしになったということさ」
「そういうことにしておこうか」
「さあ、そろそろ煩い奴らが起きてくる頃合だ。君も、細君のベッドに戻っておくと良い。浮気でも疑われたら、コトだからね」
「そういうことを本気で疑うような人だったら、今頃、俺はこの世にいないよ」
「違いない」
この日、彼の細君であるシエルのために、何人もが死ぬ思いをすることになった。