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第十三話「オルゴール」

Part:A

 人間、やる気になればなんでもできる。そんなのは嘘だ。それが、そう信じているからこそできるのだと理解し、それが他人にはできないこともあるのだと想像もしない奴らには、わかるはずもない。しかも、そういう輩に限って、往々にして、自分以外の人間によって幸いにも問題なく生活を続けていられているということにも、気づいていない。だから、私のような、身体が思うように動かず、なおかつ、自分のために何かをしてくれる人物もいない者には、この社会は生き辛かった。

 赤く汚れた白い廊下で、二人の男が向かい合っていた。一人は飛び掛るように背筋を曲げて尚、もう一方の者より背があった。もう一人は、それに対して何をしようというわけでもなく、確認するように言葉を紡いでいる。歳の差を考えれば、説教をしているようにも見えなくも無い。二人の立つ廊下には常に警報が響き、どこからかは煙すら流れてきていて、会話どころではないはずなのだが、二人とも相手を無視するようなことはしなかった。それどころか、相手の一挙手一投足どころか、呼吸の間すらも読み合っている。そこには、時間稼ぎや隙を窺うといったそれぞれの思惑以上のものがあった。事実、彼らの目の届かない場所では、様々な人間が、意図的かどうかに関はわらず、大きな渦を作り出そうと蠢動していた。そのことに気づいたのか、最初からどうでもいいのか、背筋の悪い男が、先ほどまで聞いていた相手の言葉に、流暢な話し方で応えた。誰も、足元にある幾つかの死体には意をくべたりはしない。ダストシュートを落ちていった肉塊はどうだろう。
「その考えが変わったのは何故だい。まさか、その病的な思考が治ったわけではないんだろ。ま、その点では俺も同じだけど」
「やる気になれば、不器用ながらも、なんでもできるということがわかったからだよ。私はこれまで、なんでも上手にやろうとし過ぎていただけだったのさ」
「それだけ君に能力があったというだけのことだよ。ただ、不器用な面が今の社会に合わなかったというだけのことさ。その点も俺と同じだ」
 彼が仲間の中で認めているのは、対峙している相手だけだ。驢馬は何を考えているかわからないし、地獄の六十年代も、黄金の七十年代も、何もかもを共有していない。ただ理解があるに過ぎない。猫にしても、口と同じくらい手が汚い点は、どうにも鼻についた。終いにはその鼻すら患わせ、自分の手も汚れてしまった。それでも、仲間だからという理由だけで動けた点でいえば、彼もまだましだったのかもしれない。だが、この男だけは違う。
「違う」
 びっくりした。自分と同じ言葉を相手が口にしたからだ。しかし、そんな様子は微塵も見せず、鶏と称される男は、背筋を曲げて、それまでと同じように、耳をそばだてた。
「これまでの私、そして貴様らは今でも、不器用なのを言い訳にしているだけだ。どう戦えば豊かな人生を歩めるか、考えもせず、ただ力任せに社会を、いや、自分の人生を破壊しているだけだ。それが自分だけで済んでいる内は良い。だが、我々は最初から、他人の人生を破壊することを前提にしてしまった」
「今更だなぁ。君は、社会も、そして我々すらも裏切った、ただの裏切り者じゃないか」
「ああ、そうだ。そうしなければ、何も出来なかった」
「そんなことはない。君は怖くなったのさ。臆病者だ。恩を忘れた馬鹿な犬だ」
 心にも無い言葉だ。恩だって? そんなもの、今までに一度だって感じたことは無い。それを他人にばかり求めるのは、馬鹿のすることだ。そうだ、俺は馬鹿なんだ。それを、こうしてインテリ染みた言葉で誤魔化そうと、馬鹿は馬鹿なのだ。
「最初から口では解決する問題ではなかった」
 それぎり口を利かなくなった二人は、思い出したように戦いを始めた。


 音が膜の上を広がる。情報の全ては視覚化され、全てが合わさってヘドロのようなイメージになる。明確な文字のようなものは無く、色と形の境目だけが連綿と続いている。フレーム臨界ぎりぎりまで、汚濁が広がる。黙れといってみても、誰が喋っているのかもわからず、声が出ているのかどうかすら定かではない。そんなことはお構いなしに、声は広がり続ける。意識と呼べるものの縁の中を波紋が二重三重と跳ね返る。雑音と声の選定がその都度行われる。神経にすり込まれた記憶が一定の基準を満たすと、声が確かなものとなって、意識された。
「致命傷を避けられたのは、術者、いや、あの場合は模倣者だが、それがコントロールをした結果でもない。塩として劣化した血によるものだ。つまり、我々にとっても、彼らにとっても、あの状況は幸運だったと言って良い。もっとも、本来の術者が使役をしたならば、もっと確実に、そうだな、例えば貴様の意思だけを刈り取るとか、そういった非常識なこともできたろう。特にあれは特殊だ。保管するという点に関してだけ言えば、確実に史上最高といって良い。鬼の霍乱の類とはいえ、厄介なものだ」
 黙れ。自身の混乱から来るものではなく、たしかに気に障ることを相手は言っている。
「現代においては、想像物は常に創造物に追いつけない。どこまで想像しようと、既に創造してしまえるだけの力が我々にはあるのだ」
 黙れ。お前は誰に、何のためにそんなことを言っている。口を閉ざせ。舌を呑め。肺を破れ。喉を潰せ。そこまで我慢がならないというのに、どうして自分は手で遮らない!
「空しいものだ。素晴らしいことを思いついたとて、既にそれは在るのだからな。遠からず、人類は思いつくということを諦めてしまうのかもしれない。その空しさの先にこそ、新しき境地があるということも忘れて、天才によるものを認めず、漫然とした現在ばかりを見たがる」
 何が音で、何がそうでないのかが判別できる。すると、何が足りないのかがわかった。景色が無いのだ。自分の眼だというのに、肝心の見たいものが見えないではないか。集中しようとしても、声は止まない。自然、そちらに気が注がれた。
「だから、貴様には思ったことを百パーセント――いや、二百パーセント以上を保証してやろう――発揮できる身体を与えてやろう。なあに、簡単だ。既に在るものに君の思考を載せれば良い。視覚に感覚のありったけを繋げ。全てを用意した。そう、それが人である貴様が望んだことなのだ」
 繋ぐ、という言葉に何気ない感慨を覚えた途端、視界が開けた。無数の光点が紙魚のように浮かび泳ぐ中、ひときわ大きなそれがいた。肉塊が箱の外に見た、初めての人間だった。


 蹴り。既に蹴りとは呼べないほどのそれは、片足の股から足先にかけてが、まるで飛ぶように相手に襲いかかる。ムエ・タイのような鞭のごとき動きではない。人間が最も強烈な衝撃を叩き込める足が棍棒と化し、ときに真っ直ぐに、ときに角度をつけて、相手の身体を削り取ろうと繰り出される。
 背を曲げた男は相も変わらず背を曲げていたが、囮にした手先と自身の顔面すれすれを掠める蹴りをかわしながら、一撃必殺の頃合を見計らっていた。腕や腰、フットワークで誤魔化しきれない隙が必ず生じるはずだ。そう考えていた男は、やがて愕然とする。
 どこにそんな隙があるというのか。
 決して広いとはいえない、たかだか幅六メートル程度の廊下で、壁に当たることも、間合いを離し損ねることも無い動きが、どこをどうすれば可能になるのか。ましてや、飛び跳ねるといったトリッキーさも無いというのに、何故、攻撃に対する予測が困難になっていくのか。
 要するに、相手の男はほとんど、一直線に押しては引く動きを繰り返しているに過ぎない。そう気づいても、事態は一向に打開できそうもない。この男が一度蹴りを放ち始めたとき、既に大勢は決していたというのか。

 彼を相手にしたことがある、某国の外人部隊に所属していた男は後に語る。「鳴き始めたら止まらない……それが『犬』だ」

 とんだ誤算だ。必殺どころではない。なんせ、こちらは一撃でその必殺を決めなくてはならないというのに、相手は、必殺に及ぶ威力の蹴りを、一撃どころか当たり前のように繰り出してきているのだから。目の前の相手はこの二十年間、常にナイフなどの取り回しの利く道具で生き抜いてきた。そんな男が体術をこれほどに駆使できようとは。
 その感想は翻って相手の男にとっては侮辱であった。犬の二つ名を持つ男は、自らが好んだ獲物を誰よりも熟知しているからこそ、その限界を知っていたからだ。加えて、こと、軍隊においては、一つのことしかできないなどと戯言のような台詞、役に立たなかった。一つのことを極めるなどという悠長なことは、あの鉄の規律の下では許されるはずもない。トータルバランスを底上げできない者に、翌日の起床のベルを聞く資格など無かった。戦時はともかく生き残れば良かったが、平時となればそうはいかない。
 個性? 本質? 馬鹿なことを。個性だとか本質だとかいうものは、努力とは無縁のものだ。尊重しようと蔑まれようと、磨かれるものではない。それに縋っているのは、頭のおめでたい子供のままで育った哀れな大人だけだ。もっとも、そんな奴らが社会を任せられるようになった今世においては、目の前の男のような、上背と手先だけは一丁前の木偶が育ってもおかしくはないのだろうが。
 普段は温厚な犬が、戦闘中は殊更に相手を貶めて行動する。それは一歩間違えば油断に繋がるのだが、彼はそんな間違いをしない。そも、行動から過程、そして勝敗という結果までが一瞬で決まりかねない戦闘において、油断など、最初に捨ててしまえば良いものだ。あとは常に加速し続けるのみ。それはたしかに彼の思い込みかもしれなかったが、板についた思い込みほど、個人を強くするものはない。既に放たれること五十強、円と線の軌道すら断たんとする動きを見せる蹴りがそれを証明していた。
 彼の本質とはすなわち、距離感や空間認識能力における直感の鋭さだ。これに、相手がこのような体勢の場合はこういう動きをする、という、自身の攻撃に苛烈さを与える予断と経験が加わり、それらが相手を束縛し続ける。これを断ち切れるのは、攻撃している本人のナイフによる必殺だけだ。

 男は続ける。「しかし、それが必殺ではない。必殺を上回る必殺……どちらかを防ごうとすればどちらかが確実に決まる、いわば極殺……それが奴の本当の牙だ」

 木偶は認識する。こちらの必殺どころではない。とにかく、出鱈目な方法でもなんでも良いから、相手の動きを止めなければ、退けはしない。既に目的は遂げたが、こんなところで死ぬつもりは彼には無かった。いざとなれば、片腕の義手に仕込んだ小型爆弾を使い、一時の不自由を覚悟で、相手の意表を突く覚悟はできていた。四十を迎えた人生において、それをしたのは一度、それもまだ生の腕のときの話だ。そのときは不可抗力ではあったが、この相手には覚悟の上でそれをするだけの必要と価値を彼は認めた。
 そして、木偶が自然な動きにみせかけて、初めて相手の蹴りを防ごうとしたとき、天井の一部に罅が走った。聞き慣れない、みしりという嫌な音がした次の瞬間、鉄筋と配管を引き裂いて、人より大きな物が、粉塵を巻き込みながら落ちてきたのだった。

男はこの言葉を残して、口を閉ざした。「こちらが牙に歯向かおうなんて思っちゃいけねぇ。奴を目の前にしてやれることはただ一つ。時間を稼ぐことぐらいなものさ」

 いち早く体勢を立て直したのは、木偶であり鶏である男だ。彼は歯に仕込んだスイッチを押せなかったことを苛立ちながらも、次こそはと、そのまま角の向こうへと走り、姿を消した。犬の牙は再び奥深くにしまわれた。邪魔が入らなければ、廊下には血が咲いていた。

 そして廊下には、ケネスという男と、機械に繋がれた肉塊が残った。
「鈷型……」
 いつの間に、というつもりはない。これだけの騒ぎにおいても、彼は接近してくる異様なものに気づいていた。むしろ、それが到着するのが先か、先ほど逃げた鶏を自分が仕留めるのが先かを楽しんでいたくらいである。彼は、その異形が、たしかに廃棄されたものだと知っていたが故に、呟いていた。

 SI-UC-400。Sinaia Industry社のシリーズ初の永久欠番となったはずの多脚型非常事態地域単独作業ユニット。この会社は多脚型作業機械における業界でのリーダー的存在であるが、これまでは地雷や汚染地域での活動、つまりは屋外での運用のみを想定してシリーズが連なる。一方、AN-01から11まで存在する開発部署の内、3つまでが独自路線でのデータ蓄積からくる企画を持ち上げ、屋内に特化したものが会社の内外から求められることになった。その雛形が、三対の足を持ち、大小合わせて十を超えるマニピュレータを搭載した、UC-400である。
 最大の特徴は、立体的な構造を持つもの、つまりはビルなどでの速やかな移動を実現した点が挙げられる。具体的にどう実現したかというと、その名の通り、鈷杵のように上下に足が付けられることによっている。上下の足それぞれが固定と掘削(成形材次第では小規模極点爆破)をし、強引に局地的な縦筒状の空間を作り出して階上階下へ移動する。
 最大の欠点は、各部の格納に関してだった。前記の機能を実現すると、マニピュレータや制御系統の格納に必要なスペースが余分に必要とされ、これに当初から懸念されていた内燃機関室及び燃料室の大きさが加わり、機体全体の肥大化が必至となった。また、当てにしていた軍への試験作引いては軍用モデルラインに必要な火器搭載という問題もあり、その設計理念が現行の運用目的においては「階間移動以外に使い道の無いもの」とされ、パーツを組み立てただけのものや各部の動作データだけを残して、結局、欠番となった。以上がケネスの知る、一ヵ月前までの本機体の情報である。
 しかし、今、彼の目の前にある物体は、紛れも無くその鈷型である。それでも、各所に資料写真との相違が認められた。その中で最も大きく違っている点は、計六本の足それぞれの長さと大きさが、本来の規格と比べて二倍近いこと。既に足というよりはクレーンのアームである。そして、その出力を補うのに十分な拡張がなされた本体部は、以前の直径に比して三倍。安定性を高めるために高さは幾分か低くなったものの、それにより、足の大きさが誇張されている。元々、ビル内部における作戦行動に際しての拠点形成に役立てるというコンセプトがあったが、それを特化したようだった。これでは作業機械というより、足のある戦車だ。それが、廊下の天板及び床板の四隅に足を伸ばし、ケネスの前に立ちふさがっていた。

 この後に開始されるだろう戦いにおいて重要なのは、ただ一点。決定打を放つ力の有無。ケネスは悔しそうに。箱の中の肉塊は嬉しそうに。その一点を確認した。その光景を、ケネスの後方の天井に備え付けられたカメラ越しに見ていたヘイグは、控えさせておいたソロモンに連絡を入れた。箱の中の歯車たちが、音を立てて回り始めた。

Part:B

 大局というものは往々にして局面ごとに判断する必要がある。今回もそうだ。しかし、その局面じたいが大局に飲み込まれる性質を持っていることもまた然り。今回もそうだ。そして、大局を見通している者がいるのも、また常。今回はそうでなかった。

 シリンダー、無数のピン、そして歯車も、どのような曲が流れるのかは理解しておらず、曲が流れ始めた今となっても、それを自覚することはない。彼らには耳が無い。あっても聞こうとしない。それは人間も同じだった。

 イタリア、フランス、スペイン、イスラエル、エジプトの地中海を臨む主な国々は事態が具体的に動き出す以前から単独・合同を問わずに活動していたのだが、既に現在はその役目をそれぞれのスパイ組織に任せている。東欧及び東アジアの国々は静観を決め込んだ。大真面目に策動しているのは、今となっては、ドイツとアメリカの二ヶ国だけである。日本政府に至っては、耳どころか目すら頼れなかった。それでも、かろうじて事態を掴むことに成功した者たちはいた。しかし、彼らは本来、そういった事態とは無縁な者たちであったのが不幸といえば不幸だろうか。その不幸が幸に転じるきっかけとなるドイツの優秀な官憲は、その途上で出会った者にアメリカでの活動を任せ、現在は日本に到着している。この際、各国の右翼組織もまた、愛すべき自国の姿勢を無視して動き出していたことを、ここに記しておく必要がある。彼らは、対ゴーリスト、数次に及ぶ中東戦争の代償を払い続けた期間、アイルランド紛争、トルコ人難民、ナチズム犯罪の否定、それらに代表される問題の全てに勝るとも劣らない士気の充実を自他共に認め合った。久しく、彼らは舞台に上がっていない事実がここにきて影響していたのだった。埒外であるはずの、ウェールズを除くイギリスの全ても立ち上がる。英国諜報部はその尖兵であるが、他国のスパイ網にかかった情報によれば、欠番とされている007以外の活動までが認められている。小説のそれと違い、007は二重スパイであったという説が有力である。たしかに冷戦下ではその活動は誰の目にも明らかな功績を上げ、現在でもそれらしい者の活躍があるとされているものの、業界の一般論は自身の目を疑いはしなかった。現在、いやさ過去と未来においてでさえ、007が何者なのかがわかる者は限られていたのだった。

 さて、サンことサンヴァルツォがシエルに連絡を取ることに成功したとき、彼は既に西海岸にいた。回線を切ったばかりの携帯電話を眺めて、国に置いてきた娘に電話をしようかと思ったが、我慢した。危険な目に合わせておいて今更心配なんかするなとどやされるのが落ちというものである。同じように娘を置いて日本へと向かった男も、同じような葛藤をしている。
 予想以上に冷え込んだ夕方過ぎに空港のロビーを出た彼は、タクシーに乗り込んで疲れた頭を休めようかという期待を裏切られた。とにかくこの運転手はよく喋った。近頃は地下鉄が大幅拡張されたから暇で仕方が無いとかいう話を真面目に聞いたのが良くなかったのかもしれないなとサンが自嘲している傍から、訛った発音でべらべらと言葉を繋げているのだから始末が悪い。それでも、途中、腹が減ったかい、減ったよな、美味いヌードルの店を知ってるんだ、あれだよ、待ってな、ほらよ、とあれよあれよと言う間に渡された自分の分の食事が予想以上に美味かったので、サンはそれだけで幸せな気分になれたのだった。未だに童景を残した好漢は、そういう男である。彼は唇についたスパイスを舐め取りながら、ここまで来たからには徹底的にやらねばなるまいという、決意を固めてもいた。例えそれが数少ない友人の、更に少ない友人を追及することだと知っていたとしても、彼は許せなかったに違いないだろう。彼にとって、娘を危険に合わせた相手への請求書の数字はまけられない。とにかくこの一週間は忙しすぎたし、割に合わないリスクを背負わされ続けた。毎度、似たような境遇に置かれる志貴にでも会えば、事細かに語ってみせることだろう。その志貴はというと、シエルが夕食を作っているキッチンのテーブルで、有彦が草稿と修正をノートパソコンを相手に四苦八苦しながら同時進行しているのを、リストに書き足された有彦の汚い字を読み上げることで手伝っていた。今日の夕食はカレーである。

 結局、サンが直接には連絡が取れなかったソロモンは、ゼフィールと共に、CIAの支局がある路地に店を構えているレストランで軽い食事をつまんでいた。――サンは事務所の電話番号以外は確実でないとして覚えていなかったし、電話を受けたシエルも、電話口だからか口が重いサンに対して思うところはあったものの、下手に騒ぎ立てることを避けた。
 二人がこうしているのは、ヘイグに万が一のときのために控えているよう言われたからであったが、万が一といっても、億が一みたいな騒動の後では気も緩みそうなものであったが、ケネスが捕らえた者に接見するという大事が終わるまでは、目立たないながらも近い場所で控えておく必要を、二人は認めた。
「不味いな」
「ああ、不味い」
 他意などそこにはなく、ただ単に出てきた料理、特に地中海風なんたらとかいう主役が麺なんだか飯なんだかわからないものに対しての言葉であった。
「大体、地中海風というのがわからん。地中海のどこだ。地中海の魚を使ってないのにどこをどうすればそうなるんだ。スパイスにしても、ほとんど植民地のものじゃないか」
「滅多なことを言うない」
 いつの話だよ、とでも言いたげなゼフィールの顔を無視してソロモンは続けたが、ほとんど耳には入らなかった。このとき彼女は珍しく、人と会話をしたくなかった。能力を使った後だけに身体の調子が悪かったからだ。ソロモンもそれにもちろん気づいていたのだが、だからといって気を遣うようなお互いでもなかった。
 最後の会話からややあって、ヘリの音がした。最初、二人は厳戒になっている航空管制のものかと思ったが、そんな軽い音ではない。飛んでいるというよりは、地面から空気を巻き上げんばかりの轟音と言ってよく、それはすなわち、超低空であるということだった。二人がその段階で気づいたかどうかはわからないが、それは戦術輸送用のツインローターのものであった。それは重々しい物体を目的のビル内部の爆発を確認した後に投下すると、入れ替わりに到着したらしい航空管制のヘリの目から逃れていった。ソロモンたちは最後の段になって店の外でその姿を確認できたのだが、それがどんなヘリかということはどうでもよく、何故に航空管制の網を強引に掻い潜った上であれほどにまで進入を許したのか、ということだ。意図的なものを感じつつ、彼らは次に、今動くべきか否かという選択を思案し始めた。直ぐに答えは出た。然るべき指令伝達があった上でならば動いても良い、という消極的なものがそれだ。本来、彼らのような者は消極的な選択を良しとするが、今回もそうであった。そうでなければ、命が幾らあっても足りないのである。自ら望んで死地に赴くのは映画の中でアクションシーンという見せ場を演出する必要がある場合のみだろう。とはいえ、十分ほどした後に『然るべき指令伝達』があったのだから、彼らも映画俳優を馬鹿にはできまい。
「ああ、そういや、007シリーズの新作、全然見てないや」
「緊張感の欠片も無いな、お前は」
「あれは公開されたら見ておかないと気が済まないんだよ」
「大衆娯楽の奴隷だな」
「大きなお世話だ。お前だって、俺が昔のシリーズのビデオを見てたら横から興味深そうに見てたじゃないか」
「いや、あれはだな」
 そこでソロモンは言葉を濁した。言って良いものか考えたからだったが、そうとは知らないゼフィールが茶々を入れる。
「なんだよ。やっぱりあれか、頭はませてても心は純なのか」
「それこそ大きなお世話だ。ああ、馬鹿者、時間が無いというのに」
 時間が味方するだけで、人は知らなくても良いことまで知る機会を得る。失った手足を取り戻すかのように知識を得続けた彼は尚更だった。――誰が言えるというのだ、モデルになった人物と既知であるなぞと。実際の007は貞淑で誠実であり、誰よりも世の中を良くしようとしていた。ソロモンは半ばむきになって、それでいて事実を、心の中で呟いた。

Part:C

 昔からこうしてばかりいる。鶏こと、メイヤー・モランは逃げながらそんな気がしていた。想像以上に足に負担を強いた所為かその速度は遅く、しかしながら、鍛えられていない者が全力で走るのとそう違わない速さを保っていた。彼の父親は、恐らくは誰かしらが漠然ながらも抱いているだろう強迫観念――息子を必要以上に立派に育てなければならないといったような感慨を持っていた。結果、彼は必要以上に自分の器を知ることになったし、今でも自分が狭量なのかそうでないのかがわからなくなってしまっている。意識しなくても良いことを意識した瞬間に人生の迷路に入り込んでしまうのは、若いうちには誰にでもありうることだ。実際には人生自体が迷路であって、それに気づいてしまうだけなのだが、これもまた若い者特有の、自分だけがそうであるかのような錯覚によって誤魔化されてしまう。こうして、コミュニケーション不全気味の少年は自己啓発として軍隊への道を選ぶ。父親から若い時分に決別するには、それ以外に考えが浮かばなかった。七十年代に入ってからの入隊は歴史を学ばない者ゆえの愚挙として片付けられかねなかったが、彼の父親は息子の意思を必要以上に尊重した。彼の父親は、息子にまつわるあらゆる事柄は、息子がそうなるべくして生まれ、自分がそれを助けたからだと思っていたが、それはたまたま彼の思惑通りに息子が育ったに過ぎなかった。――想像以上の屈折を抱きながら彼は育った。メイヤーの記憶の中での母親の役割は、ただ溜息を吐くだけだ。そうして、彼は国民全体が溜息を吐く中で「アメリカにとってのベトナム」を現地で経験した。帰国後、彼の人生はその他大勢のそれから逸脱する。彼の父親が病死の間際に成し遂げた息子のための最後の手助け。彼の原因と結果は全て父親に因るものだった。それを不幸としか捉えられなかった時点で、彼は自分を決定的に見下したに等しかった。他者への必要以上の期待と羨望はそれ故だった。
 彼の父親はその人生の後半をDEA(連邦麻薬取締局)の職員として過ごしたが、名を明かさない友人たちによるとそれまでの彼には似つかわしくない過ごし方をしていたらしかった。汚職の数々を知りながら何の告発もせず、まるで誰かを脅迫するための準備をするかのように淡々と、それでいて緻密な、日記を書き残した。その端々には表裏問わない組織名が見え隠れしていた。メイヤーはそれが書かれた日記を相続した。それから一年後に母親は、あらゆることへの理解を拒絶したかのような溜息を残して、息を引き取った。彼女は一度も夫の日記を読むことは無かったし、読もうともしなかった。その一年間、メイヤーは除隊をし、その日記の写本を作ることに苦心した。同じ部隊にいた愛書狂が、本を真に理解するには写本が一番だと語っていたのが、感慨に残っていたからだ。彼はまた、写本に時間を取られて本の数をこなせないことが悩みでもあったが、帰還の一ヶ月前に落とし穴に落ちて、玉袋から脳みそまでを竹ざおで串刺しにされた。メイヤーはそういった事柄を苦笑交じりに思い出しながら、充実した時間を過ごした。彼の一生の間で、それほどに満ち足りた日々は他に無かった。写本が終わると、彼は原本を携えて、父が生前に、自分に何かあれば訪ねろと名を残した人物を訪れた。その人物こそ、『驢馬』だった。組織に関わってから失った腕のために彼がこしらえてくれたのも、この左腕だった。
 こうして一瞬の間に諸々のことを思い出してみたが、逃げていたのかそうでなかったのかよくわからないという結論が出た。そんな心境でも、侵入経路とは別に用意した逃走経路は一つの角も間違わずに辿れている。後は事前にワイヤーを切断して落下させておいたエレベータがある縦坑を降りるだけだ。懸垂下降のためのATCを手早く設置し、慎重さと大胆さを兼ね備えた動きで、先ほど逃げてきた廊下がある五階から二階へと降りていく。二階からは非常階段を使わずに警備隊員と避難者に紛れて逃げるのが最上だ。一人だけ非常階段から出て行けば、良くてお縄、悪くて銃殺となる可能性が高い。爆破しておいた二階エレベータドアまで降りると、下方に落下したエレベータが見えた。運命のときに人が乗っていたかどうかは分からない。世の中には、運が悪いというだけで死ぬ人間がもっと多くても構わない。彼はそう考えていた。そうすれば、死には理由が必要などと考える愚か者がもっと減ることだろう。
 縦坑から出ると、ケネスの蹴りで所々傷んでしまった作業員用の服の襟を正し、帽子のつばを持ちながら、人の流れを探して駆けていく。中央階段へ向かう方向へと警備員が誘導する姿が見えた。私服の職員の中には銃を構えつつ誘導を手助けしている者もいたが、気にせずに傍を通り過ぎる。階段に差し掛かったところで、下が騒がしいのがわかった。いや、騒がしいのは当たり前なのだが、その騒がしさの中で口喧嘩――それも賓客とウェイターが注文の取り方についてそれぞれの主張を通そうとするような――を耳にするとは思っていなかった。階段に注意しているように見せかけつつ歩みを遅くして降りながら、それとなく騒ぎの中心へと目を向けた。そこには背の小さいと形容するよりも、子供と言った方が良い体躯の者と、見覚えのある禿頭が見えた。前者には心当たりは無かったが、後者は写真で何度も確認したスローンだった。メイヤーは仕事を終えつつある者が時折見せる、余裕がありながらも厳しい表情で、口論の内容に耳を傾けた。
「――これで三度目だが、もう一度だけ聞いてやる。今、ケネスの警護をする人間は彼の傍にいないんだな?」
「だから、そんなことはわからないと言っているだろう。無線は全て避難誘導のために割いているし、管制室の人間だって機械に任せてとっくに逃げ出したんだからな」
「あなたに一般の職員を非難する資格は無い。非難されるべきは、事前にあらゆる妨害を考慮してケネスを警護する計画を立てなかったあなただ」
「馬鹿をいうな! 今回の計画はとっくに私の手を離れているんだ」
「何だと……?」
「何度も言わせるな、あいつは、あのいけ好かない若造は、私から大事なものを奪った早々にこんな失態をしてるんだ! なんて世の中は不公平なんだ、私は、私は……」
 相手には何度も言わせておいてよく言うものだ。メイヤーは表情に出さないようにしながら苦笑すると、スローンの惨めな弁明を聞けただけでも今回の仕事は楽しいものだったと、日記に書く内容を考えながら最後の段を降りようとした。
「姿勢が悪いな。ああ、左腕だな。天然モノじゃないんだ」
 メイヤーが地面に脚を着けた音と幼い声が重なった。人と人の肩がぶつかり合うような混み合った騒ぎの中、その二つの音だけが、お互いの耳にはしばらく残った。スローンは何かを思い出したかのように走り去ってしまった。メイヤーは意を決して振り向いた。自分は銃以外、特別な武装をしていない。あるのは爆弾入りの義手だけだ。どうせ死ぬ覚悟でやるなら、義手を馬鹿にした奴が相手の方が良い。彼は半ば、捨て鉢だった。


 逃げなければならない。ケネスはずっとそう考えていたが、それを実行しようとはしなかった。あの者の手に因るものが、ただの茶筒みたいな玩具であるはずがない。その茶筒に苦戦している自分がこう考えるのは不遜かもしれないが、彼はそれでもこう考えていた。この機械は自分が最期を見届けなければならない。途中で助けが来るにしても来ないにしても、この場を逃れれば二度と機会は無い。彼が予想している助けとはソロモンであったが、彼はこのような化け物に対して優秀過ぎる。恐らく、二度目は無い。そして、自分はこの化け物に対しては劣っていた。
 先ず、蹴りが通用しない。対人に対しては恐ろしい破壊力と圧迫感を持つそれが、人の力ではどうしようもない硬さの前では無力。そして、これが一番の問題なのだが、相手の弱点が分かっていることだった。それは大概の場合において決して問題ではないどころか、むしろ有利な立場になれる点なのだが、その弱点が最も危険な間合いにある場合はただ焦燥を煽るだけだ。携行している改造拳銃からの徹鋼弾を至近から撃ち込めば勝敗は決する。腕が一日ばかり使い物にならないほどの反動があり、下手をすれば弾は出ても拳銃が耐え切れない場合がある。そうなれば片手の指は無くなるだろう。しかし、それも致し方の無いことだ。思えば、この歳まで五体満足でいられたことの方が不思議なくらいなのだから。
 何にしても、鈷型の胴体下部から出ている何本かのマニピュレータをどうにかしなければ、間合いに入った瞬間に電圧で意識を持っていかれかねない。
 相手がヘマをしでかす可能性はゼロではないにしても、低い。恐らくはゼロコンマの単位だろう。それでも、そのゼロコンマに頼るしかない。最悪、それが無理であれば逃げ出すこともできる。ただ、それではあれに何を言われても反論できなさそうだ。それは嫌だ。これまでの人生、結構な無茶をやってきた。大きな賭けに乗るのも悪くないだろう。そうして、彼は条件反射的に行っていた回避動作に関して意識を拡大させた。

 動く拠点は移動そのものが凶器だった。上下三対の脚はそのどれ一つも同一の動きをすることはなく、移動という、最もバランスを必要とされる動作を行う。天井に突き刺さるものは主に姿勢制御を、床へのものは前者の補助と障害物の排除を目的として稼動する。時折、床を破壊しない程度に極点爆破を行い、攻め立てる相手へと威嚇する。それは威嚇だけではなく、足元への不安を相手に与えることによって、意識レベルでの抑制を相手に促す。度が過ぎれば特攻の決意をさせかねないが、筒の中の肉塊は相手がそのような相手ではないことを十分に知っていたし、そもそもそのような特攻、こちらにしてみればむしろ望むところ。マニピュレータで張り巡らせた結界とでもいえる間合いを掻い潜られようと、極点爆破のための電圧は常に確保してある。いざとなれば相手ごと廊下を破壊し尽し、下の階へと落ちるだけだ。その衝撃に自分は耐えられるが、相手は無理だろう。上から落ちてくる瓦礫に対する防備も相手には無い。逃げるだけの余裕も足場もそのときにはもう無い。もっとも、そうなる前に自分からケリをつける算段はあった。そのためにこうして、電圧を逃しながらぎりぎりのそれを確保しているのだから。いわば、猫が柱を傷つけて爪を磨ぐのと変わらない。形は随分と違ってしまったが、自分は未だに猫なのだ。速度にして時速四キロメートル。動くには少々遅いが、相手を追い詰めるには十分だ。決着がつくとすれば階段だろう。あと一つ角を曲がればそこは東階段だった。

 決着がつくとすれば階段だろう。ケネスもその結論にはとっくに辿りついていた。いくら多脚とはいえ、段差が連続する階段においてはかなりのデリケートさを要求される。階段の強度自体、足りているか怪しい。しかし、崩れてもらっては困る。崩れるか崩れないか、その絶妙なタイミングにおいて、あの化け物の処理は最大限まで姿勢制御に回される。ソフトだけで制御するのではなく、ハード自体の構造がバランス制御に回されているのだとしても、そのデータを読み取るだけでかなりの負荷になる。不安が無いわけではない。間違いなく、あの化け物には何かしら、咄嗟の状況において機械にはできない決断をできる何かが載せられている。例えば、人間の。

 脚部による爪跡と崩れ落ちかねない罅が縦横に走る廊下の先で、決着がつこうとしていた。ケネスは踊り場までの二十六段を一気に飛び降りる。その様を、子鳥が親鳥の羽ばたく姿を学ぼうとするかのように見届けた鈷型は、静止して一分が経とうとしたとき、ようやく脚を踏み出した。
 一段目。階段は崩れない。ケネスは髪を撫で付ける。
 二段目。上脚部が天井から離れると同時にアブソーバーを最大限に働かせて下脚部を設置させる。階段に罅が入る。ケネスは割ってしまったサングラスのことを思い出した。
 三段目。――階段が崩壊の兆しを見せた瞬間、ケネスは一気に階段を駆け上った。油圧式の胴体延長機構では、天井までアームが届くことはない。
 刹那、鈷型が上脚部の先端を天井に対して垂直にさせる。自由落下直前の無重力時間を利用し、ジャイロと胴体各部噴出孔との連携によって成される芸術的な姿勢制御。その象徴が空を切る。無意味ではない。胴体はたしかに、上脚部を天井まで届かせたのだから。
 ――胴体中央から吹き出たのは、蒸気だった。この技術の粋を集めた機体の予備動力には、車三台を浮かせるだけの蒸気を一瞬ながらも噴出せる蒸気機関があった。およそ考えられるものではない。それは本来の動力源である水素電池から生成される幾ばくかの化合物を特殊な触媒に通すことによって為される芸当。理論的には可能とされながらも、三大物理法則に始まるあらゆる制約がそのか細い理論を押しつぶそうとする中、それはたしかに実証された。
 上脚部が天井に瞬間時速三百キロメートルで突き刺さる。その内の一本が余りの速度によって間接部に障害をきたすが、一瞬だけ胴体を支えるには十分だ。ケネスは崩壊する階段の瓦礫の中で最後まで元の位置にあった手摺で体を捻り、落下しながら上に向かって銃を構える。弾丸を撃つだけではだめだ。落下した後に――どこまで落下するのか見当も付かないが――自分は背中を打ちつけ、そこに動かなくなったあのデカブツが落ちてこようものなら、間違いなく天寿を全うできない。彼は咄嗟にそう考えたが、それでも弾丸を発射した。この拳銃は二度と使い物にならないだろうと撃った瞬間に判断できるほどの衝撃が両手を通して脳髄に響く。それと同時に、ヒュウという風切り音が聞こえた。コン、という呆気ない音と共に弾丸は鈷型内部へと侵入したが、それは蒸気機関と何本かのケーブルを切断しただけに終わる。ボフという、景気の悪い音でそれが判った。しかしながら、これで無茶苦茶な動きはもう二度とできなくなった。これからは常識だけが支配する世界だ。

 上脚部が力を緩める前に、天井が崩壊し始める。最初の衝突の時点で、鉄筋まで到達した脚部が構造に致命的な打撃を与えていたのだった。左右に伸ばされたマニピュレータの先端に取り付けられたカメラがケネスの姿を捉える。胴体に受けた損傷により、着地時のアブソーバーと蒸気の力を合わせた衝撃緩和機構は働かない。ここで確実にケネスを仕留め無ければ、着地時の下脚部の損傷によって満足に動けない自分は、誰かが回収するのを待つしかなくなる。完全に天井が崩壊する直前、通常のような拡散させる爆発ではない、指向性を持った極点爆破を行い、加速する。確かな方向性であった。途中、カメラが爆破によって飛んできた破片で破損する。それでも、胴体の真下にいる相手を下脚部はがっちりと捉えていた。後は極点爆破によって、胴体に衝撃を貫通させるだけ。そうすれば相手は二つに分かれ、腸を撒き散らしながら床を転げまわることになる。猫は、嬉しそうに口を動かした。


 ゼフィールは、吐き気を喉元を抑ることで耐えながら、駆けていた。確実ではないながらも、自分がソロモンに先行することによってケネスを助けられる可能性に賭けた。ソロモンのことだから、今頃は誰か適当な人物を捕まえて情報を聞き出していることだろう。彼が間に合うならばそれに越したことは無い。何より、この吐き気の中で動き回るのは辛すぎる。自分には生理が無いというのに、この調子の悪さはどうしたことだろう。生理のことを思い出したら、子宮を摘出する手術のとき、ヤブ医者が麻酔をかけそこなった所為でメスによる尋常じゃない痛みをもらったことまで思い出した。かぶりを振って嫌な思い出を振り払うと、消去法で割り出したルートを駆けることに意識を集中させた。昨日、ざっと歩いた限りの情報からではあったが、この状況ではエレベータは使い物にならないだろうし、非常階段もありえないだろう。ケネスが接見していたとされる部屋から非常階段へ向かうなら、東階段の方が近いし、敵が何人もいた場合、挟まれる危険性も少ない。彼なら、逃げるにしても戦うにしても、そちらに向かうだろう。
 案の定、東階段に向かえば向かうほど、上れば上るほど、何かが動き回る気配が強まった。気配だけじゃない、たしかに何かが動いている音がする。それほどの轟音、どんな相手だというのか。知らず、吐き気は収まっていた。それが嫌な予感というやつだったのだと彼女が思い返すのは、しばらく後だった。


「ほう、カマをかけたのだが、本当に貴様が今回の騒ぎの元凶だとはな」
 ソロモンは帽子を脱ぎ捨てた相手に向かってそう言い放つ。いくらソロモンでも、関心も面識も無い相手の欠点を口にするほど不遜ではない。それでも口に出したのは、もう一つ理由があった。こういった組織は、ああいった身障者を毛嫌いする。出入りするだけならともかく、作業員として雇うとは到底思えなかったのだ。組織のそういった閉鎖的な性格が、その末端の崩壊の際に幸運となったのは皮肉としか言えないが。ズボンの後ろから銃を取り出したメイヤーは、超然とした態度で会話に応えた。
「君は行かないで良いのかい」
「ここは嫌な臭いが充満しているから、あまり無闇に動き回りたくないんだ」
「じゃあ、どうするんだ?」
「先ずは目の前の悪臭を殺す」
 ソロモンがそう言った途端、明らかに悪い質の気配が立ち込める。なんだ、本当の悪臭は君じゃないか。勝機は一度。どう考えても、この坊主は事前に驢馬から教えられていた「出会ったら死ぬ気で逃げても死ぬ相手」だろう。
 あらゆる過程をすっ飛ばして、とにかく銃を撃つ。しかし、予想できる範囲の人間の攻撃なぞ、ソロモンにとっては蚊よりも無害だ。死徒としての身体能力でも銃をもらえば傷にはなるが、両手足を共鳴させることによって展開される彼の保管に使われる固有結界が「選定」を行う。彼が無価値と判断したものは全て跳ね返される。ゼフィールやケネスのいない、ワンマンによる活動。それこそが彼の最も得意とする環境だった。細かいことを考えたくないというのが正直なところだろう。
 と、メイヤーが銃を投げつけてきた。余りにも馬鹿馬鹿しい行動だったが、一瞬だけソロモンの視界と意識が拳銃に集中してしまう。それを狙っていたかのように、メイヤーはソロモンの首元めがけて、左手の平を伸ばした。
「残念だったな」
「全くだ」
 とんだ茶番というやつだった。一瞬の油断や隙なぞ、何の役にも立たない。それが死徒だった。その結果を、二人は嬉しそうに享受した。メイヤーの左腕はソロモンの手刀によって肩口から切断され、それをソロモンはメイヤーの右脇腹に突き刺していたのだった。
「なんてこった、今日は日記が書けそうにない」
「それは済まないことをした」
「最初で最後の神風ができたってのに」
「なんだと――」
 ソロモンが唸るが早いか、メイヤーが奥歯に仕込んだ爆弾のスイッチを押し込んだ。逃げ遅れていた何人かが巻き添えを食らう程の爆発が起こる。それを遠くから見守っていたこれまた何人かの者は思わず口を手で抑えたが、数秒後にはその抑えていた手すらはなしてしまった。爆心地には、苛立たしそうに立っている子供がいたのだから。
「……時間を潰しただけとはな」
 ソロモンはそう言い捨てると、ゼフィールが向かった方向へ、正に飛んでいった。周りにいた者たちが再び逃げようとした瞬間、辺りを熱と光が埋め尽くした。一階ロビーはメイヤーが事前にセットしておいた爆弾によって消し飛んだ。計算し尽された威力によって、面構造の中核である外壁は無傷である。それらの爆弾――つまりは他にもある――は彼の死後、一分が経過する毎に爆発するようになっていた。それは計画によるものというより、自分が死んだとき徐々にたくさんの人間が死んでいく姿を想像する遊び心によるものだった。その遊び心は、予期せぬところでソロモンたちに味方することになった。更に一分後、配電盤が爆破された。これにより、ソロモンすら凌駕する速度で、影渡りの能力を持つサンヴァルツォは瞬時に繋がった影の中から自分が行くべき場所を割り出し、影を渡った。自家発電が働き、暗闇は一瞬だったが、彼にとっては一瞬で十分だった。彼は普段、あまりこの能力を用いたがらない。それは、影を渡る瞬間、それが人間のものであった場合、何かしらの干渉があるからだ。それらは精々、気分を害す程度でしかないのだが、今回はとにかく量が多い。質という点では教皇庁のときに聖座の面々を狩ったときの方が何倍も上だったが、漠然とした無念がこれだけの量で存在すると、影を渡るのも億劫になる。もっとも、億劫になる程度の彼が一番の問題であるのかもしれない。
 サンが最終的に影を渡り終えたとき、目の前には墓石があった。丸い墓石とは珍しい、とふざけてみたが、どうやらその墓石はまだ動けるらしい。地面に力なく広がっていたマニピュレータらしい一群がのそりと首を上げ、必死に現在の状況を理解しようとしている。傍にあった誰かの足だけ残った体を振り払ったり、瓦礫を退けてみたりといった具合だ。これならばまだ余裕はありそうだとサンが判断すると、先ずはシエルに電話で聞いておいたケネスとかいう人物を探すことにした。とはいえ、それもすぐに見つかる。サンが振り向いた先にある、階段があっただろう、そして墓石が鎮座している場所とは反対の方向にある一つ目の部屋のドアが開いていて、そこから男のものらしい脚が伸びていたからだった。サンが慎重に近寄ると、ケネスは部屋と廊下の間のドアでくりぬかれた壁に背を預け、疲れた顔で煙草を吸っていた。サンに向けるナイフを持った手元も怪しい。
「誰だ」
「ソロモンの仲間です」
 簡潔な挨拶を済ませると、ケネスはだらりと腕を落とした。意識はあるし、致命傷も負っていない。少しでも気力と体力の回復に意識を割いているが故の所作だった。
「ソロモンの仲間ということは、あのお嬢さんの仲間でもあるわけだ?」
「お嬢さん? ……ああ、ゼフィールですか。彼女もここに来ているはずですね」
「行ってやれ。彼女がどういう体かは知らんが、そう長く保たんことぐらいはわかった」
「……どこですか」
 サンは眉を顰めた。ケネスが嘘をついていると思ったからではない。単純に、ゼフィールの身がどうなっているのか気になった。彼女の体に対する知識が無いものならともかく、自分ならまだ希望を見出せるかもしれない。そう思って彼はケネスが顎で指した方向にある、倒れたロッカーの上へと歩み寄った。
「あの足が、そうか、ああ、これは……なんとも」
 そこでは、ゼフィールが疲れきった上体を寝かせていた。当たり前だ。下腹部から下が無いのだから寝てるしかない。美しかった金髪にはべっとりと血がついていて、胴体から下には今まであまり感慨も持たずに接してきた人の内臓が露出している。見開いた目と大きめに開かれた口から必死にひゅうひゅうという呼吸を繰り返しているが、それも長くはないだろう。彼女の体の再構成もできる塩の能力をもってしても、延命は後十分が限界。サンは残酷な結論を確認してから、彼女に顔を近づけた。ゼフィールは顔をサンに向けると、口を動かした。
「また娘を残して遠出か。酷い親だね」
「そうしてわざわざ出かけてきた私への歓迎にしては、随分と酷い有様ですね。ゼフィール」
「ソロモンには……」
「まだ会ってません。まあ、もう少しで来るでしょうから、もう少しぐらい頑張りなさいな」
「違うよ。ソロモンには、ケネスのおっさんを庇ってこうなったってことは言わないでおいてくれって頼みたいんだ。あのおっさんにはさっき頼んだし」
 彼女に詳しく聞こうとすると言い淀んだが、結局は話してくれた。なんでも、目の前で階段が崩れたと思ったらケネスが落ちてきて、助けようと思って手を伸ばしたが誤って突き飛ばしてしまい、しまったと思った瞬間に上からでかいものが降って来て、直後、耳が馬鹿になり、気づいたら廊下にこの姿で横たわっていたそうな。サンは今しがた吸い始めた煙草の煙を溜息と一緒に吐くと、感想を言った。
「……まあ、格好悪いですしねぇ、その死に方」
「だよなぁ……って、おい、なんだよ、もうちょっと優しくしてくれたって良いじゃないか」
「そう言われましてもねぇ。死に際だってのに、全然しおらしくないじゃないですか、あなたは」
「心残りはあるんだよ」
「なんです? 叶えられる範囲なら叶えてさしあげるところですよ」
「いや、そりゃ無理だよ。ほら、どうせこうなるならソロモンにさ、その、なんだ」
「ああ、噛まれておいても良かったな、と、そういうことで」
「……そんなだと、娘に嫌われるぞ」
「子供は親を嫌うぐらいの方が良いんですよ」
 そうでもないな、と言ったそばからとある情景を思い出して否定したりもしたが、ゼフィールは知ったことではない。彼女が知っているのは、結構幸せそうな家族のことだった。
「志貴やシエルにも聞かせてやりたい台詞だな、それ」
 彼らが娘の咲美を可愛がっていたことを思い出して、サンは横を向いて笑った。再びゼフィールに面と向かうと、彼女は目を閉じていた。彼は吸っていた煙草を彼女の口に咥えさせると、もう一本、吸い始めた。頭がちりちりという感覚で苛立つ。そろそろ自分も、こういった不慮の、仲間の死を、覚悟しなければならない時期なのかもしれない。そう考えていると、ようやく到着したソロモンがケネスを気遣う言葉を彼に述べてから、部屋に入ってきた。
「ソロモン」
 彼は応えない。代わりに数秒考え込んだ後、手をゼフィールの頭の上にかざし、ゆっくりと横に振った。保管庫の口が開き、彼女の体が吸い込まれていった。サンが呆気に取られていると、ソロモンが今更のように彼に応えた。
「直ぐに退くぞ。こうなった以上、私も自分がどうなるかわからん」
「流石にしおらしいんですね」
 サンは、ゼフィールを失ったことからくる癇癪のことについて述べたのだが、それは直ぐに否定された。
「馬鹿を言うな。そういう話じゃないんだ。あの馬鹿を別の馬鹿に会わせることになるんだ。下手をしたら私の固有結界が暴走する」
「は? 全く意味がわからないんですが――」
「君はわからんでも良い。ヘイグに用があって来たんだろう? 奴なら管制室だ」
「気づいていたんですか」
「奴は組織人だ。それが自分の組織を危険に晒し続けて、平気でいられるはずがない。平気でいられるならば、それは危険を承知だったということだ」
 思えば、あの一緒にコーヒーを飲んだときにしたって、落ち着き払い過ぎていた。彼は職務に関しては非常に潔癖だからだ。何人もの面識があまりないとはいえ仲間には違いない者たちが傷つき、ベッドに横たわっているというのに、それを見舞いもしなかったのは、彼らに会ってなんらかの決心が鈍ることを恐れたからだったのかもしれない。いつものように自己完結染みた得心をしている傍らで、サンが苛立ちながら質問をする。
「気づいていたのに、こうなるまでそっとしておいたんですか」
「たしかにゼフィールには悪いことをしたが、奴は死なん。一般で常用される世界という枠組みからは外れることになるがな。それに、例えゼフィールがどうなろうと、ヘイグが私にとって価値のある人間であることに変わりはない」
「私は彼を殺しに行くと言ったら?」
「どうもせんよ。私が価値があると認めた人間同士が争おうと、そのどちらかが倒れようと、その価値は変わらん」
 それは絶対な価値基準。彼に、揺らぐなどという言葉はあってはならないし、事実、存在しない。言葉や顔だけならいくらでも揺らいでみせるが、彼の本質は常に決定された価値に従っている。サンはそのことについてはとうの昔に看破していて、半ば呆れ、半ばそれでも面白がって彼の行く末をどうなるか考えて付き合ってきた。だから彼のことについてはこれ以上、質問をしないことにした。
「そうですか。それでは、また後で会いましょう。そのときにはゼフィールはどうなってます?」
「まあ、顔ぐらいは出せるだろう」
「安心しました。では、彼のこともお願いしますよ」
 ケネスの方を二人が向くと、彼はのっそりと煙草を持った手を上げて、よろしく頼むとでも言う風にしていた。
「事務所でシエル君のカレーでも食べながら待ってるさ」
 所々で爆発が続く中、三人は向かうべき場所や帰るべき場所に足を向けたのだった。

Part:D

 足りない。肉塊は必要なものを探し回ると、傍にあったものをとりあえず脚に使った。他の部分にも使った。それでも足りないものがあった。頭だ。どこにも頭が無い。さっきはあったのに、どこに逃げたんだ。畜生、他にも足りないものもあるというのに。そうして、肉塊は足りないものを探し回ることにした。

 上に行くことはできないので、とりあえず下に行ってみた。ボイラー室に辿りつくと、とりあえず周りにあったものを体に使ってみた。必要の無いものはそれから外に出すこともできたが、意外と捨てるところは無かった。これで体は元気になった。随分と形が違ってしまった。驢馬が見たら驚くだろうな。驚き過ぎて、壊されてしまうかもしれない。でも、それはそれで楽しそうだ。そんな風に考えながら動き回って、色んなものを使ってみた。

 体が元気になったので、今度は待望の頭を探し回った。一階、二階、三階……どこも汚いだけだった。しかも、肝心の頭が無い。腹が立ったので、手当たり次第に潰して回った。途中で、頭らしいものも潰したけれど、どうせ新鮮じゃないから気にしなかった。

 足りない足りない。頭が頭が頭が。足足りりなないい。頭頭頭ががが。頭頭頭頭頭頭頭……。がががががががががががががががが……?

 ――見つけた。できれば強そうなのが良かったけど、折角だから我慢しよう。そして、これに体のことは全部任せよう。そう思って取り付けたら、体が重くなった。やっぱり、すぐには無理か。でも、気分は楽だ。驢馬がどんな顔をするか、楽しみにしながら眠ろう。猫は脚を畳んで丸くなると、迎えが来るのを待ちわびて、眠りについた。

 その頃、驢馬はアイに来たご主人様に殺されていました。彼がアイした綺麗な脚は、今では彼の頭を踏み潰しています。彼がアイした綺麗な腕は、今では彼の関節をもぎ取っています。彼のアイした綺麗な胸は、今では彼の脊髄を抱いています。彼のアイした綺麗な顔は、今ではよりいっそう、綺麗な顔をしていました。

「あなたは椅子? それともベッド? 器も良いかもしれないわね。その大きな頭には調度良いもの。お城と一緒に全部置いてきちゃったから、他にも欲しいものは一杯あるわ。あなたも、お父様のようにお城を用意できれば……ああ、やっぱりだめだわ、どっちにしろあなたはこうなっていた。そうでしょう? まあ、良い肩甲骨をしているわ。ユダヤ系のこれは丈夫だって聞いたけど、本当ね。腰はだめ、使い過ぎよ」

 夜が深ける。急ごしらえの不揃いな肉と薄い酒で満たされた部屋が扉を閉ざす。オルゴールの呻きはまだ耳に届かない。彼女が城を失って三日。ようやく一息つけそうな夜だった。