第十九話「愛しき民に」

 私が思うに。サンヴァルツォは被害者の様子や推測されるだろう手口、犯人像を一通り聞き終えると、刑事二人に話し始めた。
「今回の二つの事件は、殺し屋が金によって依頼された仕事ではありません。それというのも、名前を明かすことはできませんが、ここいらの……まぁ、欧州は庭みたいなものですよ……武器の仲買人、シンジケート、それに銀行までも、不審な動きをした様子が無いのです。そりゃあ、どこにでも横領や裏取引はありますけどね、それらは全て把握できているものなのです。結局は、どの段階で暴くか、それだけが問題なのです。そして目下の所、そこまでする必要のある取引は確認できていません」
「まるで本当に全てを把握しているかのような口振りだね」
 マティセクは決して皮肉を好んで用いるような性格ではなかったが、サンヴァルツォの朗々とした語り口に、つい声を挟んでしまう。
「どこそこのサラリーマンが何分何厘の利息に苦しみながら年収何年分のローンを返しているか、なんてことまでは知りませんよ」
 サンヴァルツォは特に気にした様子も無く、テーブルにあるビールを一口分、喉に流す。連休の初日は、十二月に入ったにしては気持ちの良すぎる、快晴に恵まれていた。マティセクは旅先で仕入れた上質の煙草を咥え、火をつける。
「それじゃあ、『不審な動き』ってやつがあったかどうかは、どうしてわかるんだい」
「世の中には、私のような者を間に挟まないと身動きができない方々というのが、大勢いるんですよ。そういった個人、若しくは組織の間の調整に関わっていますとね、自然と情報が集まるものなんです。先日にジャコモ君から電話をもらってから今日の間までで、充分な情報を幾つかの有力な筋から聞くことができました」
「それこそ、庭に出てきた隣の家の住人に夕食のメニューでも聞くみたいに、だね」
 サンがにっこりと笑って、パーリアに頷く。サンは彼の俗っぽい喩えを挟んだ話し方が好きだった。それまでパーリアはサンが美味そうにビールを飲む姿を眺めていた。彼とマティセクのアイスコーヒーの氷は、とっくに溶け切っていた。
「ここまで徹底的に金の流れが掴めないとなると、最初に話したように考えるしかないのです」
「となると、一組織内で全ての行動が管理されているということだな」
「一つとは限りませんが、ある程度、限定されていることは確かでしょうね。もしかしたら、一個人に殺人計画に関する全権が委任されているような形かもしれない。秘密裏に事を運ぶのであれば、それが最も確実ですから。失敗した場合を考えてもね」
「それはあまり嬉しく無いな。実行犯を捕まえたら、それで終いさ。後は辿りようが無い」
「実行犯が下手を打たない限りは、そうなるでしょうね」
 このとき既にマティセクの頭の中ではカラビニエリという名前が別の意味を持ち始めていた。全体とは云わずとも、少なくともその一部が、犯罪者なのだ。つまるところ、マティセクとパーリアはこれまでの間に、それ以外の者による犯罪である可能性の芽を摘んできたのだった。
「下手を打つと君は思うかい」
「下手ならとっくに打っていますよ」
 サンは申し訳無さそうにはにかみ、続けた。
「私が関わってしまいましたから」


「あの自信は何だろうね」
 マティセクは既にこの場を辞したサンが座っていた席を睨んだ。
 たしかにカラビニエリを疑わしく見るだけの材料は揃った。他の組織に関知されず、金も動かさずに、狙撃による暗殺計画を企てることができる組織はそう多くはない。特に彼らは、これまでに無く活発に動いている。当たりをつけるだけの価値はあった。しかし、事態が好転したわけではない。疑わしいからといって、堂々とその内部に手を入れるわけにはいかないし、的を絞るにしても、今の段階では限界があった。
「サンヴァルツォという名前にしたって、偽名でしょう? もちろん、偽名を使ってるからといって信用できないということはありません。匿名の情報にしたって、使い方次第なんですからね」
「彼も下手を打てないのです。恐らく、私たちが感じた自信以上に、あの方は多くの情報や推理を持ち合わせていると思いますよ」
「ええ、それはわかりますが、下手を打てないのは我々ですよ。狙撃犯が野放しになるのは大問題だが、刑事二人の首が飛ぶのはどうってことの無い問題です」
 マティセクの軽い焦りから生じた過激さに、小柄な刑事はよく耐えた。彼はマティセクを宥めるように彼に向けて手をかざし、二三度頷いてから慎重に話すべきこととそれに準じた行動の順序を話すことにした。
「マティセクさん、貴方はしばらくこちらでサンヴァルツォ氏と行動してください」
「……貴方はどうするんですか」
 パーリアの言葉を受けたマティセクは他にも云いたいことはあったが、突然に眠れるイニシアティブを発揮した彼に無理に抗うようなことはしなかった。刑事に必要なのは――必要な段取りを組み上げる知識と経験、判断力。また実働にあたっては繊細かつ強靭な蜘蛛の糸にも似た閃き。そしてそれを信じ、動くことだ。パーリアは喜びとも苦笑いとも取れる微笑をマティセクに振舞ってから、残念そうに首を振った。
「すみません、お話できません。それを話せば、余計な責任を貴方にも負わせることになる。今の段階では、話さないことが最善なのです」
「わかりました。貴方の考えと行動を信じることにします。私が困ることと云えば、あの美味いパスタと白ワインを奥方にご馳走してもらえないことぐらいですしね」
「近い内に伝えておきますよ。それでは、連絡は私からしておきますので、この住所に明日にでも訊ねてください。あなたの荷物はホテルを見つけてから私の自宅に電話して妻に送らせれば良いでしょう」
 マティセクはパーリアが立ち去ってから、手渡された紙切れを何度も読み直した。視線を往復させる度に思うのはパーリアの計画についてだ。刑事としてこの事件を解決したいという想いも当然あったが、それと同じくらいに、同志、いや友人として、彼を心配している。だが、自分がイタリアにいたのは遠い青春時代のことで、街の顔役や貨幣までもが様変わりしてしまった。これで良かったのだろう。マティセクは立ち上がると、腰の曲げ方がおどおどとしているウェイターに勘定を頼んだ。そこでウェイターは答えた。サンヴァルツォが三人分の清算を済ませ、マティセクのためにタクシーまで呼んでおいてくれたことを。
「本当に様変わりしたもんだ」
 マティセクはタクシーの後部座席で呟くと、何かを確かめるように唇を舐め、運ちゃんに目的地を告げた。


******


 トマシュ・マティセクは大学時代、建築学部に在籍していた。短期以外での留学となると、それがイタリアの中心部で学ぶには最も効率が良く、情熱を駆り立てる道筋であった。在学中の彼にどのような変遷があったか、それは明らかになることはないが、彼自身は満足のいく学生生活だったと信じている。だが、父親はどうだったろう。娘を送り出す側になって初めて、自分を見守っていてくれた人々がどのような葛藤を繰り返しながら日々の生活を続けていたかがわかった。
 イタリアに残れば良かったのかもしれない。そうであったならば、少なくとも、父親が帰郷した息子に落胆するようなことは無かっただろう。そう考えるマティセクであったが、娘の顔を見ておきたいと思った。親の勤めとは、変わり続ける子供を見守り続けることだと妻は云っていた。使命に対する解釈のようであまり好きな物言いでは無かったが、親という、実に迷い易い立場では、そんなものですら助けになるのかもしれない。
 マティセクはタクシーの運ちゃんにチップを弾むと、大学の敷地へと足を踏み入れた。親子は、時を隔てて同じ学び舎にいた。


 受付で警備員の洗礼を受け、係員に身分の証明と目的を伝え終わると、これから呼び出すから座って待っているように云われた。運ちゃんがあんたもどうだい、と手掴みで渡してくれたキャンディを舌で転がしながら待っていると、見覚えのある顔が近づいてきた。娘ではない。マティセクは驚きながらも、大分小さくなったキャンディを飲み込んで声をかけた。
「ケーゲルさんですよね。まだこちらにいらっしゃるとは思わなかった」
「トマシュだろ? 覚えてるよ。ひょろっちかったくせに、随分とがっちりしたじゃないか」
 嬉しそうに答えたケーゲルは建築学部の教授で、マティセクが在学していた頃には既に四十歳を迎えていた。今では六十歳を越えているはずだが、二メートルに届かんばかりの巨漢は相変わらずで、厳めしさでは更に磨きがかかったようにすら感ぜられる。彼とは深く話しこむようなこともなかったし、意外な縁があったわけでもない。彼はいつだって、マティセクを品定めするようなにねめつけてから、馬鹿はするなよと忠告していた。ただそれだけの付き合いだったのだが、彼の『御言葉』を講義以外で聞けた人間は学内でも理事長を含めても三人しかいないという程の寡黙な人物であった。今にこうして話していても、ケーゲルの珍しい行為に目を丸くしながら職員や学生が廊下を横切っている。
「お父さん? まったく、連絡も無しに!」
 通行人の流れを肩をいからせて突っ切ってきた娘に、マティセクは照れくさそうに片腕をポケットに突っ込んで『やあ』と応えてから、余っていたキャンディを差し出した。娘のシャーリーンはクリーム色のブラウスに紺のロングスカートという服装で、先回に別れてから劇的に趣味が変わったということは無いようだった。
「いまどき、娘への手土産がキャンディとはな。シャーリーン、荷物は届いたのかな」
「ええ、これで週末は出て来なくて良いと思ったのに」
「娘をご存知だったんですか」
 娘の冷たい眼差しを脇に、マティセクがケーゲルに問う。ケーゲルは嬉しそうに、人の話をよく聞く良い子だね、と答え、周りを見渡してからある方向に指を差した。マティセクの記憶によると、それは大学から一番近い、喫茶店がある方角だった。
「ここは騒がしい。私も午後からは予定を空けてあるから、お茶でも飲もうじゃないか」
「いえ、父はきっと忙しいでしょうから、私がお供します」
「おいおい、それは無いだろう。私も明日まで予定はがらがらなんだから」
 明日と云わずにこれからでもサンヴァルツォの家に押しかけたかったのだが、極力、パーリアの指示通りにしなければ彼に迷惑がかかるかもしれない。サンヴァルツォにしても、ああいった手合いは変に生活の安定に気を遣うところがあるから、パーリアから連絡が届くまでは歓迎はしてくれないだろう。ただでさえ難しい仕事をするにあたって、同志の機嫌を損ねるのは喜ばしいことではなかった。
「もうどこかのホテルに泊まってるの?」
「いや、一緒に仕事をしている人の家に泊まらせていただいていたんだけど、急遽、別行動になってね」
「それじゃ、ホテルを探さないといけないじゃない。荷物だってまだその人の家に置いたままなら下着も買わないといけないわ。ほら、予定が出来た」
「ホテルなんて今の時期、どこもガラガラさ。素泊まりなら行き当たりばったりで大丈夫だよ。下着ぐらい、今はどこでも買えるしね」
「もしホテルが見つからなかったら道端で寝る気!? まったく、そんなのでよく刑事なんて勤まるわね」
「親の仕事に口を出すものじゃない」
「そういう性格の所為でどれだけ母さんが心配していたか、わかってるの?」
「君が心配してくれていることはよくわかるよ」
 どうしてこうなるのかと苦笑いをしながらケーゲルに視線を流すと、彼は既にマティセクの顔を見ていた。それはマティセクがぎょっとするほどの厳しい顔つきで、にやけた口元が引き締まる。
「どうしたの?」
 二人の様子の変化に気づいたシャーリーンの言葉に、ケーゲルは疲れた風に首を振ると、先ほど指で示した方角に足を向けた。マティセクはケーゲルが会話の中の何にあれほどの反応を示したのか、わからなかった。


******


 その日の深夜の十時を過ぎた頃、マティセクは安ホテルの一室で煙草を吸い切ると、P7M8拳銃のマガジンを確認した。弾は八発、きっちり収まっている。イタリアに旅立つにあたって、先年に採用されたばかりのP2000V5も持ってきたが、取りまわしの良さでは愛用の物に劣る。他国まで来てオーバーキルで訴えられてはかなわないという考えもあったから、この点では局長に我儘を通したのだった。


 ケーゲルが死んだことをマティセクが知らされたのは、夕刻にホテルに訪ねてきた地元の警官からだった。死因は何か細いもの……糸の類による絞殺。自室に戻った所を入り口の傍で息を忍ばせていた犯人に後ろからやられたらしいとのことだ。
 マティセクが訃報を聞いて真っ先に思ったのは、シャーリーンが悲しむだろうということだった。幸い、といっても時間の問題だが、報道されるのは翌日である。彼はその警官に、自分ならば何か協力ができるかもしれない、と云い、ケーゲルの住居の場所を教えてもらった。マティセクにはある考えがあった。それは漠然としたものだったが、行動に移るには充分でもあった。

 先ず思い至ったのは、動機だ。警官もその点については流石に言葉を濁したが、どうやら確定的なことは何も無いらしかった。悪い仲間もいなかったし、借金も無く、近所の者達とは上手くいっていた。これでは、地元の一警察には掘り下げようが無く、強盗によるお粗末な殺人であるという予断が精々である。
 だが、マティセクは知っていた。ケーゲルは傷痍軍人認定を受けているのである。普通に付き合っている分にはわからないが、彼は何か細かい物を掴もうとするとき、手首の動かない片腕を支えるような仕草をしていた。そのことについて訊ねたことがあるのはマティセクだけだと、かつて自嘲と共に語ってくれた。
 それだけではない。先ほど荷物の件でパーリアの自宅に電話をしたところ、彼の妻が面白いことを教えてくれた。それはパーリアからの言伝であったが、件の環境保護団体は別事業で傷痍軍人の援助を行っていて、元々はそれによってカラビニエリとのコネを強固にし、右翼団体からの支援も取りつけ、現在に至っているのである。そういった仔細についてはパーリアがまとめてくれたらしいものを彼の妻がFAXでホテルに送ってくれた。マティセクは細君に元の書類はすぐに処分するように伝えると、電話を切った。幾つかの疑問とこれらの下地によって、推理を確信へと導いた。

 何故、お粗末な手口であるはずの強盗が、拳銃やナイフといった一般的な凶器ではなく、絞殺具などという速効性に欠けたものを使ったのか。もし住人が大男で、暴れられたらそれまでだし、第一、待つ暇があったら逃げ出せば良い。だが、確かな経験と技術があれば、持ち歩くのに容易な凶器を選んだのは証拠を残さないという点から考えれば正解である。つまりこれは、ケーゲルを狙った殺意ある犯行なのだ。
 次に、ケーゲルのあのぎょっとするほどの反応。あのときの会話に、決定的な固有名詞は一つしか出てきていない。『刑事』だ。何故に一大学の教授でしかないケーゲルが刑事という単語にあそこまで反応したかはわからない。ただ、彼は建築学部でも名うての教授だった。ヴィテルボへの観光を学生時代に勧めてくれたのも彼である。これらについては実際に彼の部屋を訪ねてみないことには、確定的なことは云えないのだが、行動を促すには足りた。

 マティセクはフロントにタクシーを呼んでもらうと、それを使って警官に教えてもらった住所、ローマ郊外の一角に向かった。週末の夜のためか市街を抜けるまで時間がかかったが、幹線道路に抜けた辺りで一気に車が進んだ。ホテルを出てからはまだ三十分しか経っていなかった。
 彼は運ちゃんに、目的地の前をゆっくり通過するように云うと、およそ二百メートル程過ぎた所でタクシーを止めた。
「すまないが、少し待っていてもらえないか。チップは弾むから」
「構わないよ。泥棒じゃなきゃね」
「そう見えるかね」
 運ちゃんは運賃を受け取りながら、首を振る。若くはないが口調はしっかりしていて、苦労を重ねているような顔つきだった。
「どっちかって云えば捕まえる側だろ、あんた。泥棒ならもっとおどおどしてるだろうし、あんた、さっき写真見てただろ?」
「ああ」
 云われてみて、胸ポケットにしまってある親子で撮った写真を取り出す。運ちゃんはにやつきながら、それだよそれ、とおどけてみせた。
「写真を大事にできる人間に悪い奴はいねぇ。俺のお袋の口癖さ」
「良いお袋さんじゃないか。大事にしなよ」
「その前に客を大事にしねぇとな」
「まったく、その通りだ」

 タクシーを降りると、静まり返った住宅街を灯りを避けて移動する。タクシーの窓から確認した限りでは建物に異常は見られなかったものの、何が潜んでいるかわかったものではない。杞憂に過ぎなければそれで良いのだが、推理通りであった場合、それで終わるとは思えない。案の定、ケーゲル邸の出入り口の鍵は開いていた。
 こんなとき相棒がいれば裏口に回したいところであるが、今回は単独である。下手に時間を費やすよりも、多少の危険を考慮に入れて正面から突入することにした。
 ホテルで履き換えたスニーカーの足裏を慎重に進めて行く。音は立てていないはずだが、相手によっては気配だけで察知される。暗闇と緊張によって、平屋とは思えないぐらい、マティセクには広く感ぜられた。
 ダイニングに踏み込むにあたって、横に曲げた左手で逆手に小型の懐中電灯を構え、左手首の上に拳銃を構えた右腕の手首を乗せる。まだ点灯はしない。あくまでもこれは狙いを定めるときのためのもので、今から点けたのでは、相手に闖入者の位置を知らせてしまう。

 ミシ。

 床の軋む音を合図に、ダイニングに踏み込んだ。音のした方向を見ると、窓が開いている。回り込むようにして窓に近づくと、壁を背にして、外を見遣った。庭と道路の間にある街灯に目が誘われる。背中に驚異を感じ、マティセクは思い切り横に転がった。それまで立っていた場所に、銀色の閃光が走る。その際に懐中電灯が手から零れたが、片膝を地面に着けつつ、攻撃されたと思われる方向に銃を向けた。
「誰だ」
 相手を必要以上に警戒させないよう、声は荒げない。まだ敵と決まったわけではない。成り行きに任せて戦闘となるのは、できれば避けたいところだった。やられたらやり返すでは、命が幾つあっても足りない。
「賢明な『刑事』さんですね」
「わかっているなら話は早い。両手を挙げて顔が見える場所まで来い」
 外からの明かりは、それすらも予測済みなのだろう、相手の足下までしか届いていない。襲撃者の足は細く、声からも女性とわかった。恐らくは先ほどの床の軋む音も、マティセクを誘い出すための囮。相手は僅か四メートルほど先でじっとしている。床には、先ほどマティセクを襲ったと思われる、銀色の糸が垂れていた。
「賢明なあなたならわかるはずだ。この距離で私が動いたのを見た後では、射撃は間に合わない」
「どうかな。映画のようにはいかないさ。どんなときも銃は最悪の凶器だ」
「銃は凶器ではありません。銃はその銃身《バレル》によって絶対足る凶器である人の殺意を射出するのです」
「哲学的な話は嫌いじゃないが、場合にもよる」
 この距離ならばP7M8でも致命傷を与えることができる。相手のくぐもった吐息が聞こえる。嗤っているのか。マティセクは銃口の向きを調整した。
「おかしいですね、あなたには敵意が感じられません」
「私は身を守りたいだけだ。お前がこのまま立ち去ってくれるというのであれば、邪魔はしない」
 騒ぎは大きくしたくないマティセクとしては、それは願ったり叶ったりである。
「生憎、ここにあった依頼人の痕跡は全て消しました。私を捕まえない限り、あなたに有益な情報は何一つ手に入らない。知人を失っただけで終わるのは、本望なのですか?」
「警察を、いや、刑事を侮るなよ。お前は自分のような人間が関わっていることを私に知られた。それだけで刑事にとっては、給料と年金手当て以上のやる気になるのさ」
「なるほど、刑事としての心構えはよくわかりました。しかし――」
「それ以上、近寄るな!」
 明確に示威を行うが、相手は気にせずに足を踏み出す。撃たなければだめか。葛藤は、襲撃者の言葉によって遮られた。相手の不気味なほどに白い手が上がった。
「親としての心構えはどうなのですか」
 襲撃者の手には、マティセクが持っていた写真があった。いつの間に、と驚く一方、後ずさりによって間合いを保つ。彼は内心、これで形勢は決まったと諦めた。一度でも下がったらお終いなのである。いよいよ、銃爪を絞る決意を固めた。次に近づいたとき、それが襲撃者の最期だ。
「そうです、もう私を殺すか捕らえるか、どちらかしかない。このまま私に逃げられては、ご息女に危害が及ぶ可能性が出てきたのですから」
「お前の目的はなんだ!?」
「あなたはまだ私をどうにかできると思っている。しかし、それは間違いなのです。あなたの行動は予測済みです。その予測から逃れることは不可能」
「やってみるまでだ!」

 銃爪を絞り切った。

 銃弾は――出ない。

 もう一度、引き絞る。

 弾は――出ない。

 血が出ていた。

 誰のだ?

 マティセクは、自分の手首が無くなっていることに気づいた。

「はい、おしまいです」
 その言葉に視界が明滅する。もう一度、手首を確認する。たしかにある。しかし、それはがっちりと、細い腕からは想像もできない力で、掴まれていた。腕どころか、指を動かすこともできず、眼前に迫った相手の顔を凝視するのみ。そこには、切れ長の目をした女性の顔があった。彼女は完全にマティセクの動きを封じ、彼の背中を窓脇の壁に押し付けている。そこは、先ほど自分が彼女の攻撃を避けたはずの場所だった。
「エーテライトを受けてなお立っていられるとは、余程の精神力なのですね」
「エーテ……なんだって?」
「エーテライト。商売道具ですから仔細は省きますが、操り人形の糸のようなものです」
 そう云って、マティセクの首に刺さっていた銀糸を片腕の腕輪のようなものでゆっくりと巻き取っていく。その音が、この場にしては間抜けなものに感ぜられた。
「何故、殺さない」
「あなたの存在は予測外なのです。私は故あって、あるものを処方してもらわなければならないのですが……その見返りがこういった仕事です。しかし、だからといって情報が故意に隠匿されたとあれば、黙ってはいられません」
「依頼人を殺すというのか」
「幸い、薬効などから擬似的なものを精製することはできました。ここまでに五年かかりましたが、これでようやく私は自由の身です。私自身の宿命以外からは、ですけどね」
 意外と素直に自分の身の上を話す相手に呆気に取られそうになるが、反面、遣る瀬無い気持ちになる。このような人間に、ケーゲルが殺されたと思えば思うほどに。
「どんな理由があろうと、殺人は許されない」
「それは社会がでしょう? 社会は私の存在自体を許さない。ならば、私が社会のために行動を抑制する必要も無い」
 奇妙な話ではあるが、明確な敵意が、ここに来てお互いに認められた。マティセクは無理な体勢で痺れた顎を動かし、言葉を紡いでいく。
「それでも、殺人は……犯罪は、許されるものではない。例え一つの殺人が正当化されようと、そのために多くの歪が生まれる。それでは夕食を楽しみにして働いているような者達が生きていけない」
「そのために私のような者は殺すというのですか」
「人殺しは刑事の仕事じゃない」
「死刑になれば同じことでしょう?」
「死刑だろうと懲役三百年だろうと、それが罪の代償だ。人が人を傷つけた代償だ。詭弁で誤魔化すことはできない」
「詭弁を使っているのはあなたです。あなたたち普通の人間です。自由を当たり前のように玩具にし、その自由によって苦しむ者達すら玩具にする。自由は正義ではない。自由こそが業だ。自由を求める人間の根源的な悪だ」
「自由を求めているわけじゃない。ただ、生きたいだけだ。そのために自由という言葉を使わなければどうしようもないだけだ」
「なら、私はどうなるの! 私にはもう自由なんて無い。人ですらない」
 比喩ではなく、女性が牙を剥いた。それは人ではない証拠だった。そのまま噛み付かれでもするとマティセクは思ったが、彼は尻餅をついただけだった。彼を見下ろしながら、女性が続けた。
「サンヴァルツォの所に行きなさい」
「……私を、殺さないのか」
「あなたは一生、私のような存在を見たことに苦しむのよ。普通の人間のみが自由を唱えられる、この世界の中で。犯罪者を捕まえる度に思いなさい。彼らはどんな人間だったろうか。普通の人間とは何か。普通の生活とは何か。普通という言葉が強者の傲慢以外の何物でもないということに苛まれながら、弱者を捕らえ続けるのよ」
「弱者という立場が凶器を振るう理由にはならない」
「そうやって強がりなさい。いつかの私のように。写真は返します。ご息女をお大事に」
「また、こうして会うことになるのか」
 女性は答えず、写真だけをその場に残して、ふわりと短めのスカートを翻して窓の外に出た。汗と疲労で重くなった体を起こして外を見たときには、彼女の姿はもう見えなくなっていた。


******


 外傷が無いことと自分が立ち入った跡が残っていないことを確認して、マティセクは建物を出た。本来であれば何か手掛かりを掴めるかと思ったが、得たものといえば、この隘路の先にこそ目指す山頂があるのだという確信だけだった。それが一連の事件自体のことを指すのか、はたまた自分自身のことを指すのか、マティセクにもわからなかった。

 マティセクにしてみれば随分と暴れたつもりだったが、実際はそうでもなく、パトカーが駆けつけも、住人が取り巻いてもいなかった。それでも、時間を費やすわけにはいかない。朝になり次第、娘と合流しなければならないし(あの女が娘を襲わないと決まったわけではない)、ホテルを引き払う必要もあった。パーリアについても心配はしているが、今は一刻も早くこの場を立ち去り、状況を整理し、サンヴァルツォに協力を仰ぐに当たって、足手まといにならないようにしなければならない。ただ混乱し、縋るようなことはしたくなかった。

 タクシーの運ちゃんは約束した通り、待っていてくれた。憔悴したマティセクに運ちゃんは驚いたが、とにかくマティセクが云う通り、ホテルに車を進めた。途中、運ちゃんがルームミラーで何度もマティセクの様子を確認し、あることに気づいた。
「お客さん、その写真の裏に何か書いてありますよ」
 マティセクはその言葉に目を丸くした。慌てて眺めていた写真を裏返すと、そこにはシオンというサインが残っていた。