第二十話「子守れ日」

 シオン・エルトナム・アトラシアが現在まで無事にいられるのは、幸運と不運の両方があってのことだ。大半の人間にとって人生とはそういうものだが、彼女の並列思考を持ってしても、現在までに至るには二つの道筋しか無いと判断され、その内の一つは七年前、一連の教皇庁における事件によって完全に潰れた。
 タタリは未だ健在であり、空ろである。もとより人の枠から外れた身とはいえ、彼女の目的が遂げられるには一つの要素でも欠けてはならないのであった。遠野志貴、アルクェイド・ブリュンスタッド、代行者……それらにあって、最も重要なのは『シオン自身が健在であること』だ。
 生き続けるためだけに生きることほど苦痛なことは無い。刹那的な快楽に逃げることも、大志のために全てを投じることも許されはしない。ましてや人並みの幸せなど、望めば傷つくだけであった。
 彼女の容態を部下から逐次聞いているナルバレックなどは、よくもまぁこれだけ保ったものだという、呆れを隠せない。本来であれば飼い殺しになどせず、吸血衝動の兆候が見られた瞬間に抹殺して然るべきであったが、ナルバレックに云わせればそれではつまらないとのことで、教皇庁の一件で利用できそうなものの選定にそれまでよりも慎重に取り組むようになっていたこともあり、シオンは健在であった。
 教会《この場合、一般のそれではなく、埋葬機関などを含む一部の勢力を指す》にではなく、古巣である魔術協会に保護されていた場合、シオンの人生はそこで終わっていたに違いない。その任に当たったのは、サンヴァルツォだった。
「生き続けることが希望を繋ぐことにもなるのです。絶望はまやかし、神の息吹こそ永遠」
「本当にそう思っているのですか」
「ええ、実例を知っていますから」
 そんな会話から七年近くが経過した。彼とはそれ以来、会ってはいない。シオンは今、ローマにある幾つかの丘の内の一つにいる。見下ろした先にはテルミニ駅があり、昼になれば人で賑わうだろうその場所も、閑散としている。午前三時、冷たい風が髪を撫でていた。


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 ビエラ・デル・サヴォナローラがそのときの光景から何を思い出したのか。それは本人にしかわからないことだが、その光景が凄惨なものであることは、それを目撃した誰にとっても理解できることであった。
 彼女と親友であるシャーリーン・マティセクが、結局は暇のあまりに大学へと足を向けたのは、昼を過ぎて久しい頃だった。構内に足を踏み入れたとき、擦れ違った相手から銃弾が発射された。ビエラは咄嗟に友人を庇ったが、相手の腕を邪魔しただけに終わる。弾丸はシャーリーンの太腿を貫通、その際に動脈を切断し、にきびでも潰したかのような、プツという間抜けな音がした。
「え、あっ……え?」
 痛みを覚えるよりも先に、足の力が抜ける。ビエラが友人を抱きとめると、その間に犯人は逃走した。
「ちょっ! 誰か、救急車ぁ! ねぇ、誰か!」
 ビエラも携帯電話を持っているのだが、どんどんと力が抜けて重みの増していく友人を支えるのに手一杯で、電話をかけるどころではなかった。芝生の間を縫うように敷き詰められた歩行路の石畳に、血が広がっていく。それは綺麗な赤色をしていた。
「マティセクさん、こっちです!」
 友人を仰向けにしていると、聞き覚えのある声がした。ビエラがその方向を見遣ると、集まり始めた野次馬を彼女の養父が押しのけている。それに続いて、養父よりもがっちりした体格の、気難しそうな男性が駆けて来た。
「あのアマ、本当にやりやがった! サンヴァルツォさん、あなたなら間に合います!」
 男性、トマシュ・マティセクが叫ぶと、サンヴァルツォは一瞬だけビエラに目を合わせた。いつもと同じ、申し訳無さそうな目だったが、彼はすぐに超人的な勘で、犯人を追いかけて行った。
「救急車は!? 呼んだか、どうなんだ!」
 野次馬の一人が、トマシュに向かって手を挙げた。その意味を理解した彼は、応急処置に取り掛かる。
「良かった、頭は打っていないな。君が支えてくれたのか」
「えっと……」
 出血が酷い上に意識まで失ったとなれば、生存率はがくんと下がる。トマシュはそのことをビエラを落ち着かせる意味もあって、云い聞かせると、手の塞がっている彼女に代わって、止血にかかった。使えるものといったら妻の形見の、ハンカチだけだった。
「おい、シャーリィ、わかるな、父さんだ! なぁ、わかるな!」
 雲の切れ間からの陽射しが、顔の横をちらちらと掻く。疲労と焦りが脂汗を流す。
 撃たれた患部の上方をきつく縛ると、上体よりも上の位置に持ち上げる。設備の整った場所で治療するまでに時間がかかる場合、この止血方法は逆効果になる場合もあるが、今回は有効であった。
「こんなときになんだが、撃ったのは女かい?」
 確信に近い問いであったが、それにビエラが首を振った。


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 路地裏の建物の陰で、跛《びっこ》を引いた男が背中を壁につけていた。気温は大して高くはなかったが、陽射しだけは苛々するほどに鋭い。知らず知らず、男は日陰の内側へと背中をずらしていく。ごつごつとした石の感触が、心地好かった。
 突然の依頼だったが、充分にこなせたと男は思っていた。昼間の内にやる必要があったことを考慮に入れても、割に合うだけの前金はもらってあった。一方、気になったのは、目標となる人物は殺すなということだ。しかし問題なのは、一緒に歩いていたもう一人の女が割って入ってきたとき、帽子の下の顔を見られてしまったことだ。
「帰ってくる度にびくびくするのはなぁ……あいつは殺しても構わないかな」
「構うよ」
 湧いて出た闖入者の声に振り向こうとしたとき、口を押さえられ、壁に後頭部を勢い良く押し付けられる。人通りの無い路地裏に、ゴンという音が響く。首筋に、粘り気のあるものが垂れた。
「硝煙の臭いに慣れてしまっているのは問題だな」
 まさかそれだけで居所がばれたというのか。男が焦りを覚えながらも腰に差した拳銃を抜く。それに相手が気づくと、再び後頭部を叩き付けられた。骨のずれる音が聞こえた。顎がイカれたのか。もう一度叩き付けられる。視界が暗転し、呼吸が乱れる。拳銃は手を放れ、地面に落ちた。
「身分証は持っているな」
 相手の問いに、瞬きで答える。何も見えないが、空気に眼球が触れる感触でわかった。筋肉が硬直していく。早く手を退かしてほしい。男がそう願うと、相手がその通りにした。
「さよならだ」
 鼻先に掌を叩き付けた。頭蓋骨の割れる音と共に、荒い息が止んだ。サンヴァルツォは無言で、倒れこんだ男の体を物色する。じきに目当ての身分証を見つけると、それをジャケットの内ポケットに突っ込んだ。
「相変わらず、強引ながらもスマートなやり口ですね」
「君ほどじゃない」
 振り向いた先には、かつてと変わらぬ、シオンの姿があった。サンヴァルツォは眼球の飛び出した遺体を足蹴にして地面に倒すと、日陰の色に塗り潰した。
「指図したのは君……じゃないな。それならばここにいる必要は無いし、自分でやるだろうから」
 シオンは答えない。サンヴァルツォは鼻血のついた手をハンカチで拭う。蚊でも潰したかのように、その様子は淡々としていた。
「戻らないつもりかい?」
「七年前、いえ、それよりも前、あの瞬間から、私の戻る場所なんて無くなっていましたよ」
「また、タタリを追う?」
「追って捕まえられるものならそうしたいのですけどね」
「吸血衝動は?」
「薬のおかげで、なんとか。副作用で成長は止まってしまいましたし、子供も産めないような体になりました。それでも、あなたがたには感謝している」
「ふむ、なるほどね」
 サンヴァルツォが何事か考え込む。シオンはこういうときの間が嫌いだった。余計なことばかり考えてしまうからだ。しかし、サンヴァルツォこそ、余計なことを考えていたのだった。
「それじゃ、代わりと云ってはなんだけど、子供の世話を頼めるかな」


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「本気ですかっ!?」
 マティセクの怒声に、病院のホール中の人間が目を向けたが、彼が申し訳無さそうな素振りを見せると、すぐに興味を失った。マティセクは紙コップに注がれたコーヒーを呷る。彼が飲み終わるのを待って、サンヴァルツォが話を続けた。
「君が刑事として勤めを続けるのであれば、このままここにはいられないよ。私も付き合うから、誰かが傍にいないといけない。ジャコモ君のことも気になる。今回のことは、彼が動いた影響だと考えるのが自然だ。単独行動を続けられるような状況じゃない」
「彼を責めるつもりはありません。私のことはとっくに連中にばれていたし、それでも私は捜査を続けたんだ。娘のことを蔑ろにしてまで……」
「誰かを責めるとか、責めないとか、そんなことはどうでも良いと思いますよ。結果として、娘さんは傷つきましたが……連中も馬鹿じゃない。示威のやり過ぎには細心の注意を払っていたはずです」
 サンヴァルツォ自身、自分の言葉に欺瞞を感じずにはいられない。娘にはあの事件以来、物騒なこととは無縁の生活をさせていた。ソロモン達と共にアメリカへ渡らなかったのも、彼らの傍にいれば大きな潮流の中にあって、何に船の底を突かれるかわからなかったからだ。
「あの女は信用に値しますか」
「彼女が今後どうするにせよ、助けになるのは私しかいません。それに彼女も、ビエラやあなたの娘さんが無関係だということは、よくわかっています。二人には知り合いの看護士だと云ってありますが、疑問にも思いませんでしたよ」
 そこまで云ってもなお食い下がる素振りを見せたマティセクに、サンヴァルツォは苦笑いを一つ浮かべてから、昼の出来事を思い出した。
「あなたが娘さんのことを大事に思っていることは、私にもよくわかります」
 サンヴァルツォが昼食から帰ってきたとき、彼は大家に呼びとめられた。男性が部屋の前でずっと待っていますよ、知り合いなら良いけど、娘さんがいるんだから、あまり変な仲間と付き合っちゃだめよ。そう捲くし立てられても彼には何のことかさっぱりわからなかったが、昨日に娘がドアを蹴倒したことを大家が気づいていないことはわかった。そうしてから部屋の前に行くと、彼が声をかける間でもなく、マティセクが飛びついてきたのだった。
「あのときのあなたの顔ときたら……」
「それは云わないでください。鏡があったら、私でも自分だとわからなかったと思いますよ。先ずはホテルに帰って、疲れは取ったは良いものの、日が明けるか明けない頃には目が覚めたぐらいでしたし……あの住所を探すのだって苦労したんですよ」
「あそこらへんは区画を整備しましたからね。フィオレンティーナでは最も様変わりしてしまった場所の一つなんです。おかげで、余計な知り合いに居所がばれないで済んでいるわけです」
 もっとも、探そうと思えば、ナルバレックには簡単にばれてしまうのだろうけれど。いや、もうばれているだろう。サンヴァルツォは、なあなあにしてきたこれまでを反省しながらも、ナルバレックと接触する機会をどうやって得るか、考え始めていた。結局、かつてナルバレックが卑下した彼の性質は、彼の娘の人生までも決定付けることになる。
「その後に一緒に娘を探してくれたことには感謝のし様がありません」
「私にするぐらいなら、ビエラにしてください。もしあの子が割って入らなければ、後遺症が残ったかもしれませんから」
「まさか、社会学部の友人というのが、ビエラさんのこととは……」
「まぁ、親同士の友好を深めるのはまたの機会にするとして。例の身分証から、何かわかりましたか」
 マティセクが病院に到着したのは、つい三十分前のことだ。シオンを連れて戻ってきたサンヴァルツォにどういうことか説明を求めたところ、彼は犯人の身分証をマティセクに渡したのだった。
「私としても、娘の傍にいてもどうしようも無いことはわかってましたから……頑張らせてもらいましたよ」
 マティセクはジャケットの内ポケットに丸めて突っ込んでおいた書類をテーブルに広げた。これは、近場の警察の支局で身分証を照会した際に担当官に作成してもらったもので、本来は門外不出のものである。マティセクにイタリア当局への伝手が無ければ、手に入らなかったことだろう。
「――ソマリアから戻った93年に除隊後、傷痍軍人認定を受け、それからはローマ近郊で実家の手伝いをして細々と食っていたようです」
「93年……ああ、PKOのパキスタン兵がやられたときですね」
「アメリカに付き合うと碌なことがありませんよ」
「歴史はいくらでも修正が効いても、個人の人生は取り返しが効きませんね」
 それはよくわかっているのだが。サンヴァルツォは居心地の悪さを覚えて、ホールを見渡した。週末で通常の診察は受け付けおらず、緊急救命用の出入り口は裏にあるため、ホールには入院患者と付き添いの者、それに巡診などの往来ぐらいしかない。小児科医らしい若い男性が母親と別れて泣き止まない子供にガムをあげると、それを見止めた年配の看護士が苦笑いをしながら注意した。それだけのことだが、サンヴァルツォは幾分か気が良くなった。
「何歳になっても、母親ってのは大事なんですかね……」
 マティセクの言葉に、サンヴァルツォはゆっくりと頷いた。自分は母の顔を覚えてはいなかったが、思い出そうとすることはある。例えそれが常識にとらわれて自身を卑下することだと云われようと、母の存在を感じられるのは、彼にとって嫌な事ではなかった。
「虐待などの問題もありますが、基本的に、そういったことと親と子の関係というのは別なのだと私は思いますよ。人によっては、それで苦しむこともあるでしょうが、それは本人の試練でしょう」
「助けがあるに越したことは無いですけど。ああ、話を元に戻しましょう。すいませんね、あまり、この手の話をできる相手がいなかったもので」
「お話はいつでも歓迎しますけど、話すよりも、実際、娘さんと一緒にいることが大事です。確かに一緒にいて余計に傷つくこともありますが……」
 サンヴァルツォは自分の分のコーヒーを呷った。底に溜まった砂糖が、甘さよりも苦味を感じさせた。
「さて、話を元に戻すのは良いのですが、その前に確認しておきたいことがあるんです」
 マティセクは顎を突き出して、サンヴァルツォを促す。もったいぶられるのは、性分に合わないのだった。
「あなたは首謀者を捕まえたいのですか、それとも、実行犯を捕まえたいのですか」
「当然、両方――と云いたいところですが、実行犯が最優先です。もしその犯人が組織間を渡り歩くような人物だった場合、背後関係を明らかにしただけでは、危険因子がのさばったままです」
「なるほど。私としては、そのような幾らでも代えの利くような輩よりも、先ずは首謀者を、と思うのですが、そこらへんは職業倫理の違いというやつでしょうな」
「そんな立派なものじゃありません。面倒なことを他人に任せて、好き放題やるような奴が嫌いなだけです」
「結構な倫理じゃないですか」
 お互いに。二人はそう笑い合うと、普段よりも険しい顔つきになる。職業倫理というものが本当にあるとすれば、彼らはそれぞれ、代表になれるだけの気風を持ち合わせていた。
「カラビニエリに関してはジャコモ君と合流するまで進展は無いと見て良いでしょうから、置いておくとして。例の環境保護団体との繋がりは証明できるのですか」
「むしろそれを優先すべきだと思うのです。いくら臭いといっても、カラビニエリにまで手を出すのは、一日二日では少し難しいでしょう? 正直、私は狙撃犯自体が八面六臂というぐらいに暗躍していると思っていたものですから、シオンの登場で出鼻をくじかれました」
「相手の所在がはっきりしていれば落としの材料を揃えることに専念すべきですが、それができるのは今の所、カラビニエリと環境保護団体に対してだけで、狙撃犯は誘い出す必要がありますからね」
「ええ。ケーゲル氏が殺されたことで興奮していたというのもありますが、パーリア刑事と別行動するようになって、ある程度、私の責任で動けることになりましたから、それで体を張ろうと思った次第です。実際に体を張ることになったのは、娘でしたけどね」
「もしかしたら狙撃犯はもうこの国にはいないのかもしれませんよ」
「私もその点が気になっているんです。パーリア刑事の手前、その可能性は除外していましたが……やはり、いつまでも犯行現場に近い所にいるというのは、狙撃犯の手口として、おかしいんですよ」
「シオンはどうも借り出された口のようで、念の為にその点について確認してみましたが、収穫はゼロでした。彼女は社会的な立場が全くありませんから、証言は証拠になりません。とはいえ、時間をかければ彼女の知っている範囲から捜査の手を伸ばすことはできるでしょう」
「うーん、それはパーリア刑事の仕事だなぁ。私はあくまでも狙撃犯の捜査で来ていますから、取っ掛かりを見つけた以上、母国に報告してしまえば、任を解かれてしまいます。再度の捜査となると、機会を改める必要があります」
 確かな収穫はこれだけでしたよ。そう云ってマティセクは写真の裏に書かれたシオンのサインをサンヴァルツォに見せる。彼は呻き声のようなものを口から漏らした。
「ジャコモ君が電話で云っていましたが、あなた、サインについて疑っていたらしいですね」
「え、ああ、はいはい、すっかり忘れてましたが、これです」
 ずっと持ち歩いていた書類をやはり内ポケットから取り出す。彼は、銃以外はなんでも、そこにしまいこむ癖があった。
「これは確かにドイツでの被害者の事務所にあったものですか」
 サンヴァルツォの念の押しように、マティセクは眉を顰めたが、それもすぐに緩む。
「これは『遠野』と読むんですよ」
 サンヴァルツォは、Tohnoの五文字を、指し示した。


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「それで私は、遠野家に関したことを全てマティセク氏に任せたわけです。私はジャコモ君と合流後、なんとか狙撃犯の足取りを掴みましてね。それが例の『猫』だったわけです」
 カレーを食べながら聞いていた各々に話し終えると、サンヴァルツォはシエルの淹れてくれたコーヒーを不味そうに飲み干す。実際、それは泥水と称して良いほどに不味かった。志貴はパックの紅茶にしておいて良かったと思いながら、ケネスに目を向ける。彼は志貴の視線の意味を解して、頷いた。『猫』は確かに欧州の協力関係になった団体のために活動していた。
「なるほどねぇ。それで、どうやって足取りを掴んだのさ」
「ジャコモ君がルスティケリを落としたんですよ。彼はカラビニエリと環境保護団体が通じているという確信を得てから、ずっと張っていたらしくて。ボロを出した結果が、マティセク嬢への銃撃だったわけです。斡旋したのはヘイグという人物でしたが、それはもう片付きました」
 志貴はその点についてはあまり深く聞こうとはしなかった。片付いたというのであれば、片付いたのであろう。どう片付けたか。そんな余計なことを聞くほど、この世界の人間についてわからないわけではなかった。
「女の子といえば、シオンだっけ? その子も色々と苦労しているみたいじゃないか。置いてきて良かったのか」
「ほら、それはあれですよ。ここに連れてくると、志貴が余計な気を遣いますから」
「その通りです。サン、私は今日ほどあなたの判断を正しいと思ったことはありませんよ」
 シエルの茶々に、サンヴァルツォは紅茶を入れてくれるように頼んだ。彼女は満面の笑みでコーヒーを注ぎ足すと、子供達の様子を見て来ると云って、乾親子と咲美、それにパウロがいる、ダイニングへと向かった。
「しかし残念だったな。奴は化け物になってしまった。もう手がつけられんぞ」
「そのためにこうして、ソロモンが部屋から出てくるのを待っているんですよ」
 サンヴァルツォが帰ってきても、ソロモンは部屋に篭ったままだった。志貴は彼よりも先に戻って来ていたが、ソロモンから詳しい話を聞いていないという。だからこうして、サンヴァルツォの話に耳を傾けることで、仲間への心配を誤魔化していたわけだが、内心、またどんな厄介なことになるかという呆れもあって、どちらかというとそちらの危惧を忘れることに専念していた。
「遅くなってすまん」
 そのソロモンが、何事も無かったかのようにキッチンへと顔を出した。彼はサンヴァルツォのコーヒーを拝借して一気に飲むと、コーヒー通の彼にしては文句も云わず、ただ厳めしい顔を作るだけだった。
「ゼフィールは?」
「ここだ」
 志貴の当然の問いかけに対してソロモンはコーヒーのカップを置くと、手をかざす。空間から、ゼフィールが上半身を出した。
「よう」
 いつもと変わらない様子の彼女の片手には、赤ん坊が抱かれていた。