第二章「開会直前の傍観者達」

 
 千堂和樹が、即売会のための準備と、各地にいるサークル所属者にネット回線を使った細かな指示を与えている頃、和樹が総司令官を務めるサークルの2人の副司令官、柏木耕一と柳川裕也の2人は、柳川のマンションで次回の原稿のネタを作るために酒を飲見ながら語らっていた。
 耕一と柳川はこの地で同じ職場に着いている。彼らの仕事、それは第三次産業の一つ、サービス業である。と言っても、別にやましい仕事ではなく、耕一の実家が営んでいる旅館『鶴来屋』の従業員兼雑用係をしている。仕事の内容は、毎日変わる。風呂磨きから、食材の搬入の手伝いなど、ほぼ鶴来屋の仕事の全般にわたって2人は働いている。
そんな2人が、旅館にとって稼ぎ時でもあるゴールデンウィークに休暇をとれるはずもなく、自分で書いた原稿を委託販売という形で販売しなければいけないことには、2人とも多少不満だったが、それを理由に休むわけもいかずに、ゴールデンウィークまであと数日という日々を過ごしていた。
 
 柳川と耕一は、床に座布団を敷いて座り、折り畳み式のちゃぶ台を囲んで酒を飲んでいた。酒のつまみは、今回の原稿のできだった。2人で今回の原稿のコピーを見直し、問題点や、疑問点を語っていた。その後、原稿の話が一段落し、酔いが少々回ってきたのだろうか、耕一が体を床に倒し、天井を見上げふと思ったことを柳川に漏らす。
「なあ、柳川・・・お前は、ロリコンなのか?」
 
ロリコン――――V.ナボコフの小説「ロリータ」から,少女にだけ性欲を感じる異常心理。ロリータ・コンプレックス。
 
 部屋は静まりかえった。耕一の、このある種の爆弾発言はある程度裏付けのとれたものだと言うことが、その後の彼の弁解から分かっている。耕一が言うには、柏木の血を引く男子は巨乳より標準サイズを選び、さらには微乳(又は貧乳)、洗濯板などを好む。それは鬼としての本能なのか、個人の趣向なのかは、微妙なところだが、耕一の母は、標準よりも小さかったようだし、それは従姉妹達の母親にも言えることであった。さらに、祖父の愛人もそうであったらしく、その子供である耕一にとっての伯父の柳川もそうであるに違いないという。ある意味、これも呪われた血を引くものの業なのだろうか・・・・。
 ただ、ここで耕一は言葉を間違えた。柳川に柏木の血を引く男子が持つだろうと思われる性癖のことを聞くのなら、ロリコンなどという直接的な単語ではなく、回りくどい言い方で好みの女性のスタイルなどについて聞けば良かったのだ、もしくは胸の大きさについて聞けばよかったのかもしれない。ゴールが同じならば、回り道をせず直進するのと『急がば回れ』という先人の言葉に従い、長いが安全な道を通るのと、どちらがいいのだろうかは分からない。ただ、耕一がしゃべり終わった後、しばしの静寂が訪れ、柳川の目が一瞬紅くなり、その少し後に、空気を切るような音と、耕一が口からなにか吐き出すような音が一瞬の静寂を破った。
 その後、耕一は自分がフローリングにまき散らしたアルコールと胃酸の混合物を始末する事となり、それがフローリングにまき散る原因を作った柳川は部屋の隅で脚を抱えて、世間一般に『体躯座り』と呼ばれる姿勢をとり、なにやらぶつぶつと言っていた。
 
 その後、立ち直った柳川と、先ほど己の口からはきだしたものが多少服に付いて奇妙な臭いを発している耕一とが、先ほどの耕一の発言に対して論議を交わしていた。
「先の俺の発言は、少し主語を欠いたようだ。言葉を換えよう。柳川、お前は幼女愛好家か?」
 耕一の言葉は、全くかわっていなかった。そして、それを聞いた後、柳川は怒りを抑えるためか何度か深い呼吸を繰り返し、そして耕一に向かって、いつものように淡々と、それでいてはっきりと言った。
「それはお前と同じだ」
 このとき、柳川の頭には半年ほど前の、柏木本家での事件が思い起こされていた。
 その日、柏木本家には柏木耕一、柳川裕也の男性陣2人、そしてこの家に住んでいる美人4姉妹が全員そろっていた。季節はもう冬とはいえ、すでに日は沈んでから少ししか立っていなかった。まだ時刻は6時をすぎたばかりである。
この地方企業のトップである鶴来屋グループの会長を務めている長女、柏木千鶴女史がこのように早々と帰宅するのは、一年のうちで数日しかない。もしこれが、千鶴女史自らが起こした行動であるとすれば、この場にいた全員が千鶴女史を止めたであろう。彼女は天然だから何をするか分からなかったし、幾多もの前科があった。
 だが、この場をもうけたのは、長女である千鶴女史ではなく、三女の柏木楓女史であった。他者から見た場合、彼女は姉妹の中では最も良識家であり、彼女のツッコミは、的確で、心の急所をえぐるような鋭さで放たれる。楓女史を一見すると、おかっぱ頭に少しシャギーが入っている髪型、どこか黒猫を連想させるようなその表情、そして、外ではクール&ビューティー、そして耕一の前限定でへっぽこになる。
 そのギャップを見れば、だいたいの者は彼らが恋人に見える。楓を除く姉妹の間では、楓と耕一との間に、様々な憶測が囁かれている。だが、千鶴女史は2人の様子から想像される結論におびえ、次女の梓女史と末娘の初音女史は、すでに答えは出ているのだがあえてそれを口に出さないでいた。この2人、梓女史と初音女史は、あくまで本人達の口から言わせようとしていた。
 四姉妹と耕一、柳川を加えて行われた会話は単純至極なものだった。すなわち「柏木楓と柏木耕一の婚約」である。これに驚いた人間はいなかったがこの家の家長がこのときなにやらぶつぶつと言っていたのを、柳川と初音女史は耳にしている。
「いき遅れはイヤ三十路はイヤいき遅れはイヤ三十路はイヤいき遅れはイヤ三十路はイヤいき遅れはイヤ三十路はイヤいき遅れはイヤ三十路はイヤいき遅れはイヤ三十路はイヤいき遅れはイヤ三十路はイヤいき遅れはイヤ三十路はイヤいき遅れはイヤ三十路はイヤいき遅れはイヤ三十路はイヤ・・・・・」
 それに対する初音女史のコメント――――とっても無様だよ、千鶴お姉ちゃん――――。
 その後は、ただ宴会が続いた。千鶴女史は酒をあおり、梓女史は趣味である料理を振る舞い、楓女史は耕一にべったりで、初音女史は酒をあおっている千鶴女史を止めるべきか悩んでいた。耕一は今の状況を苦笑しながら眺め、柳川は――――退き際を誤ったか・・・・     ――――などと思い、ただ惰性に流されながら、ちびちびと酒を飲んでいた。
 余談だが、悪酔いした千鶴女史が楓女史に耕一との関係がどこまで行ったか聞いたところ、キスの先まで・・・・、と、ポッと頬を桃色に染めて、視線をさまよわせながらうっとりとしていた。
 それに対する、千鶴女史のコメント――――ヤック、デカルチャー・・・。キース?キースとは何だ?――――、と少々錯乱気味だったようだ。
 このようにして柏木家の夜は更けていった。余談だが、酒宴が一区切りした後、耕一は楓女史によって連れ去られ、千鶴女史は洗面器と一升瓶に口を往復させていた。
 
 
「ほぅ、つまり、お前はロリコンじゃないんだな?」
 耕一の言葉に、柳川は相槌を打った。しかしその言葉には納得した色とは、ほど遠いものが見え隠れしている。
「ああ、誓ってそのような事実はない」
「・・・・・なら、少し前の即売会に出した『スクール水着解体新書』、はどう説明するんだ? たしか、五月雨堂のスフィーさんに頼んで譲って貰ったやつをデータ取りに使ったんだよな」
 数ヶ月前、柳川は骨董屋兼情報屋『五月雨堂』の店員スフィー女史からから、『いちねんにくみ こいでゆみこ』とおなかの部分にマジックで太く書かれた極々一般的なスクール水着を手に入れている。それ以後、耕一は、従姉妹の柏木初音に注意を喚起させるべきかどうかで一時期悩んだと言うエピソードがあったりもする。
 柏木初音は今年で、高校3年になり、柏木家最期の良心として、いき遅れを気にする多忙な鶴来屋会長と、一年中頭の中にサクラが咲いている幸せ一杯の三女の2人、そして耕一の胃袋を満たしているのは彼女である。初音女史がいなければ、柏木家は次女である梓女史が、大学の寮に入った時点で崩壊し、今ではバイオハザードの汚染地域に指定された可能性もあるわけである。そんな彼女、柏木初音であるが、彼女は一言で言うなれば『ぷにろり系』であった。
 一言で言えば、体に起伏があまりないのである。さらに背丈も小さく、さらに、耕一のことを『お兄ちゃん』と呼び、世間一般の妹の水準を超えているほどに甘えまくっていたりもする。
 その様子は、耕一の同人誌のネタとされ、妹系キャラクターの素材ともなり、耕一は今まで『ネタがわいてこない』などのスランプに陥ったことはない。
 結局、耕一と柳川の会話は、その後の「柳川裕也 ペドフィリア疑惑」にまで発展したが、柳川が耕一を床に沈め、話はうやむやとなった。
 翌日、耕一は万に届きそうなタクシー代の領主書を楓に見せられ、来月のお小遣いを八割ほどカットされ、さらに夜の主導権を『攻め』から『受け』に変えられた。
 しばらく彼は慢性的な寝不足と腰痛に悩まされたかどうかは、定かではない。
 
 
同時刻
 
新潟県、遠野同人商社 本部
 
その夜の闇に覆われ、部屋の一部に灯っているスタンドグラスの光だけでは、反対側の壁が見えない広い部屋。柔らかい人工の光がぼんやりと照らす中に、2人の人間がいた。片方は長い黒髪とスレンダーな肢体を薄いオーソドックスなパジャマに包んだ姿でソファーに腰をかけている。もう一人は、その人物のすぐ横に立っていた。血とワインを混ぜたような色のメイド服、それとは対照的な純白のフリルエプロンをまとった少女がいた。顔立ちは整っているが表情は、どこか人形じみている。
 どちらも、その部屋にあるオブジェのよう思えてしまう。部屋の空気と同種のような存在とも割ってしまってもおかしくはない。この中で己の存在を自身から示していたのは、部屋をわずかながら照らす、スタンドグラスの人工灯と、光に照らされ揺らめく、黒と水色の瞳だけだった。
 水色の瞳を持つ少女の名を、翡翠といった。少女の瞳は、透明度の高い翡翠石であると言っても疑うことの難しいきれいな色をしていた。
 黒の瞳を持つ少女、――秋葉――は翡翠に、脂やら話をし始めた。
「私の愛おしい、兄さんは、今、何処にいるの? ああ、その嗜虐欲をそそるつぶらな瞳、軽く叩いただけで、紅く染まる白い肌、産毛しか生えていない引き締まったすべすべの太・も・も、―――――ああ、愛おしい、愛おしいわぁぁぁぁ―――――と言うことで、翡翠、兄さんの居場所は何処? 言わなきゃ今宵のおかずは貴方よ」
 秋葉は蛇のような、生理的恐怖が頭の中から鎌首を持ち上げてくる―――笑みを顔に発生させた。だが、それに応対した翡翠も強者であった。秋葉の脅迫ともとれる台詞と表情、そして部屋の空気を――――我関せず――――と言わんばかりに、受け流し、メイド服のポケットから、なにやら中で紅いの色の揺れているポケット瓶を取り出す。そしてそれを秋葉に渡した。
「まぁ、それでも飲んで落ち着いてください。秋葉様がそのような状態では、ゆっくりと、まともな話が出来ません」
 翡翠の台詞を聞き終える前に、秋葉はポケット瓶を一気飲みしていた。そして、プハァ、と酒臭い、ではなく生臭い息を吐き出した。
 そんな秋葉の様子を見ながら、翡翠は先ほどの会話を続ける
「それでは報告をします。以前、志貴様のゆくえはしれません。しかし、『悪友』と『ツインテール』からの報告によりますと、志貴様が、大学受験に失敗して『己を見つめ直す』などという書き置きを残し、二月ほど前に失踪しました。それと前後して見かけなくなった人物がいるそうです」
「それは誰?」
「アルクェイド・ブリュンシュタット、志貴様の愛猫レン、そして、まっどカレーのシエルです」
「最初の2人は、いついなくなってもおかしくないわ。兄さんがいないこの街なんて、彼女たちには砂粒一つの価値もないでしょう。仮に兄さんと秘密裏に連携をとって行動しているとしたら、かなり頭のいい参謀がいるでしょうね、劉備玄徳にとっての諸葛亮孔明が。私たちを撒くことは出来ても、後先の事なんて何も考えていないんだから、翡翠、そこの所を重点的に調べてみて。しかしまっどカレーの動向がいささか読めないのが気になるわね。何を考えて姿をくらましたのか・・・頭が切れる分だけ予想をつけやすいんだけど、さてどうしたものかしら」
 秋葉は自分でも言っているうちに、その三人のことがどうでも良くなりつつあったのを自覚した。本来、遠野志貴さえ手元に有れば精神的な面ではおおむね満足できる御仁だった。
 翡翠は、秋葉の言葉に相づちをうちながら、今の状況を出きるだけ整理しようとしている。まず、発端である遠野志貴の失踪、これは一般には、大学受験に失敗したからということになっている。はっきり言って怪しい。翡翠はそう思った。怪しすぎるのだ。翡翠にとっての恋敵の大半がこの時期を前後して、姿をくらましている。姉である琥珀は、何か捜し物があるらしく去年の12月から東西奔走して、一月に数回ほどしか連絡をよこさない。志貴に異常な執着を持っている秋葉は、志貴が失踪した一月前には、激怒して、もじどおり血眼になって探し回っていた。それがいまではあまりにも温厚になってこの情勢を見て遊んでいるようにも見えてくる。その姿はまるで、飼い主に逆らおうとする犬のあがきに、戯れで答えているようにも見えなくもない。
 志貴と前後して失踪したアルクェイドとシエル、そして志貴の使いまであるレン。シエルとアルクェイドが手を組むとは考えにくい。仮に組んだとしても、すぐに痴話喧嘩に発展して、その騒ぎはすぐさま秋葉の耳にはいるだろう。ならば、お互いに志貴を探すべく単独で行動しているだろうか――――いや、答えは、『否』だ。どちらが先に志貴を見つけだし、その後に抜け駆けに走るかもしれないのに、おちおち単独行動など出きるはずもない。
 もしアルクェイドが、志貴をさらって逃亡したとしたら、その行動は単純明快で、すぐに発見できるだろう。どうやってアルクェイドを捕縛するかについては、おそらくシエルがこちら側についてくれるから問題ではない。
 シエルとアルクェイドは利害が完全に一致しない限り協力関係にはなりにくい。仮に、現在シエルとアルクェイドが敵対関係にあるとしたら、資金力で劣るシエルは、なぜ遠野家に支援を要請しないのか? また、仮に志貴とアルクェイドが行動をともにしているとしたら、なぜ、あの後先考えない天然あーぱー吸血姫が緻密な――――それこそしっぽすら見せないような――――行動がとれるのだろうか? やはり秋葉のいったとおりに優秀なブレインがいるのだろう。
 翡翠の考えは、秋葉のそれとほとんど同じ所にたどり着いた。だが、この答えは新たな情報が手に入ればすぐさま、出発点になる。そして翡翠がたどり着いた場所は、実は真実から最も離れた場所ではないのかもしれないのだ。
 
 
 即売会の三日前、折原浩平は、自宅から少し離れた里村茜の家にいた。何をしているかと言えば、ただ彼女の作ったお菓子の味見である。彼女――茜――のお菓子の腕前を知っているものからは、真剣に糖尿病になるかもしれないことを忠告されたが、浩平はさほど気にしなかった。愛しい彼女の料理なのだ。文句を言っては罰が当たる。と、浩平は胸を張って―――顔は絶望と希望を9対1ほどブレンドした複雑な顔をしていたが―――忠告をした七瀬留見に言った。
 そしてその日、里村邸の半径5メートルほどは子供がすきそうな甘いお菓子の匂いでつつまれた。
 
即売会は目前だった。