ポトポトポトポトポト〜……姉さんが紅茶を志貴様と有彦様、それに自分と私の分も淹れています。秋葉様もお茶にお呼びしたのですが、何故か「後で部屋で貰います」と言って、居間には来られませんでした。いつもなら、どんな形であれ志貴様とのお茶会を楽しみにしていらっしゃるのに。やはり今朝と先程の志貴様との言い合い―――内容はわかりませんが―――が原因でしょうか。「はい、これ翡翠ちゃんのですよ〜」コトッと姉さんが、志貴様、有彦様の次に私の席の前に紅茶を淹れたカップを置いてくれました。そして最後に自分の分を置くと、「さ〜て、有彦様を交えてのお茶会なんて初めてですねぇ〜」と、お茶会の始まりを楽しげに告げます。「そうだね。いつもは屋敷の人間だけでやってるからね」そういう志貴様の顔は、いつもよりも落ち着いた雰囲気がありました。「いやぁ〜、お誘い嬉しく思いますよ、七夜さん」有彦様も(いつもそうですが)楽しそうです。「いいんですよ、有彦さん。たまには違う面子でやらないと、面白みに欠けますからね〜」…姉さん、そんな賭場で言うような台詞を使わないで。つまり、私以外の方々は全員このお茶会を楽しんでいるのです。私はというと、今朝の志貴様との会話以来、何をやっても身が入りません。仕事の合間に落ち着いて考えようとするのですが、何故私があのとき姉さんのことを露骨に感情に表したのか、まったくわかりません。いつもなら、悩み事があれば志貴様や姉さんに相談するのですが、今回はそのどちらにも頼れません。一時は秋葉様に相談しようかとも思いましたが、何やら今日は機嫌がよろしくなさそうですので、止めることにしました。はぁ〜、自分のことを真剣に考えるなんてしたことがありませんでしたから、どう解決してよいやら……。「今日は翡翠ちゃんは元気が無いですねぇ〜」と、姉さんが紅茶を口から話すと私に言ってきました。「いえ、別にそんなことは…」『ある』のですが、まさか姉さんには言えません。「まぁ七夜さん、そんなことを言ったら翡翠だって余計に気を遣っちゃいますから、今は聞かないでやりましょうよ」志貴様が庇ってくださいました。志貴様は私が元気が無い原因を知っていらっしゃるのに、何も聞いてはきません。その気遣いが嬉しい反面、寂しさもあります。それに、なんだか私を気遣うというより、姉さんを気遣っているようにも感じられるのです。…ああ、また私は姉さんを意識していますね。彼女―――翡翠にとって、姉を意識するということは、恐らく生まれてこの方一度も忘れたことはなかっただろう。物心ついたときには隣には同じ顔の琥珀という姉がいた。この時点で、翡翠が琥珀を意識するというのは、人間という社会的動物として当然のことである。人間というものは、”自分”というものを、他人との差異によって形成し、周囲へと印象づける。それができなければ、それは”自分”ではなく、ただの傀儡である。しかして、それも人格が固定化する思春期が終わる頃までで良い。それ以上続けば、逆に相手を意識しすぎ、今度は”自分”というものに興味を持てなくなってしまう。その結果何が起こるかといえば、意識する対象への依存だ。対象こそが自身が存在する全ての理由となる。更に危険なのは、「相手も自分がいなければだめなのだ」と思い込んでしまうことだ。最近では、これによって殺人事件が起こる例も少なくない。つまり、「相手がそうでない」と知ったとき、それを”裏切り”と捉えてしまうのである。さて、話を元に戻すが、翡翠は何故にここまで姉である琥珀を意識しつづけるのか。それには幾つかの原因がある。一つは、幼かった頃に姉は遠野槙久によって陵辱される日々だったのに対して、自分はそうでなかったという、姉に対する引け目である。もう一つは、姉が半年前の事件より前の記憶を完全に失ったことである。これによって、琥珀は七夜という新しい人間となり、過去の忌まわしい記憶・体験全てを忘却せしめた。 それが彼女の意思によるものだったかどうかは医学的にも心理学的にも立証しようがないのであるが、とにかく、彼女は”忘れた”のである。だが、翡翠の人間としての成長という観点から考えると、これは必ずしも喜ばしいことではない。これにより、翡翠は「姉」というものをより一層意識しなければならなくなったのである。精神的には翡翠は既に成熟してはいるのだが、こと「自立」という部分は決定的に遅れている。そして、翡翠はそのことに気づき始めている。これには遠野志貴という「男性」との付き合いによって、自分が「自立」する必要性に気づき始めたためである。しかし、その自立ができない。このジレンマによって、翡翠は姉に対して、感情を露骨に表してしまっているのである。本来、こういった問題は焦ってはいけないのだが、翡翠は志貴や姉との関係に必死に慣れようと、焦ってしまっている。当座のところ、これを解決することが、志貴と有彦の当面の目標となるのである。「そうですね。お茶が冷めてしまいますし、それに折角有彦さんがいるのですから、楽しまないと損ですね」姉さんもそう言って聞くのを止めました。「そういえば有彦、お前の姉さんは元気か?」志貴様が突然そんなことを有彦様に聞きました。「あの、志貴様?どう『そういえば』なんでしょうか?」疑問をそのまま口に出す私。志貴様がウッといった表情をして、紅茶を飲みます。「まぁまぁ翡翠ちゃん、いいじゃないですか。私も有彦さんのお姉さんの話を聞いてみたかったですから、ちょうどいいですし」姉さんが志貴様のフォローをします。それで、私はついムッとした顔をして、「はい、わかりました。志貴様、どうぞお続けになってください」と言ってしまいました。志貴様はそんな私を意に介さなかったように、改めて有彦様に質問をしました。「で、有彦。どうなんだ?」有彦様はカップを口から離すと、答え始めました。「どうといっても、いつもと変わらないぜ。いつも通り俺と日々姉弟喧嘩だよ。この間の大喧嘩のことをまだ気にしているみたいでさ……」有彦様が苦笑いをしながら話します。「ははは、相変わらずだな」「仲がよろしいんですねぇ〜」志貴様と姉さんがそれに合わせて笑います。……なんだかまた訳がわからずに気分が悪くなってきました。「でも有彦様。そう毎日毎日喧嘩ばかりでは、流石に嫌になるんではありませんか?」気づくと、自分でも意地が悪いと思うことを口にしていました。そんな私に腹を立てた様子もなく、有彦様は答えます。「ん〜、確かに嫌になることもあるよ。でもな、俺は姉貴と喧嘩しているのが嫌いじゃないんだよ」「???どういうことでしょうか」私には有彦様が何を言っているのかよくわかりません。「そうだなぁ、なんて言うのかな。俺にとって姉貴との喧嘩ってのは、”確認”なんだよ」「”確認”ですか?」姉さんが興味津々といった表情で有彦様に聞きます。「そう、”確認”。自分と姉貴が互いのことをどう思って考えているのかっていう”確認”」そこまで言うと、有彦様は再び紅茶を飲み始めました。「ははぁ……有彦さんは大人ですねぇ〜。そこまで考えて喧嘩をしていらっしゃるんですか」姉さんは冗談半分と言った様子です。「はっ、流石にそれに気づいたのは最近ですよ。姉貴は大分前からそんなつもりだったみたいですけどね。そもそも、わかっていてやっていたら、それこそ嫌な姉弟ですよ」有彦様も姉さんに合わせたのか、それとも本心からか、笑います。「つまり、喧嘩やっている最中は本当に喧嘩をしているってわけだな?」「そういうことだ、遠野。お前だって秋葉ちゃんと喧嘩したら、そんな感じだろ?」「確かに、志貴様と秋葉様も、喧嘩をしていらっしゃる最中は本当に『ああ、喧嘩だ』という感じですが、終わった後は関係をまるでリセットしたように接せられますね…」「あら、翡翠ちゃんもノッて来ましたねぇ〜」志貴様と有彦様の会話に割って入ってしまったことに気がついて、私は恥ずかしくなってしまいました。「ふふふっ、翡翠ちゃんたら赤くなっちゃって可愛いですねぇ」「あまり翡翠をからかわないでやってくださいよ、七夜さん」志貴様が庇ってくださいました。自分でもさっきより赤くなっているような気がします。「ところで七夜さんと翡翠ちゃんって喧嘩とかするの?」私がようやく落ち着いたころ、有彦様がボソッとつぶやくようにそんなことを聞いてきました。「「えっ」」思わず私と姉さんは顔を見合いました。姉さんは珍しく困ったような顔をしています。それも仕方ありません…姉さんには半年前の事件より前の記憶なんて無いのですから。「…私の覚えている限りでは、姉さんとは一度もそういったことはしていません」姉さんの代わりに私が答えました。「それが私達にとっては自然でしたから……」「でもさ、無理して喧嘩するものでもないからね。そう、互いに嘘をつかないようにする、その方法の一つとして、喧嘩があるんだと思うよ。俺と秋葉もそういうつもりで喧嘩をしているし、多分、有彦と有彦の姉さんも同じだと思う」なるほど、と思う。「結局、『嘘をつく』ってのは、急ぎ過ぎてるってことなのかもな」有彦様が紅茶をすすながら思ったようなことを言います。「あ、有彦さん紅茶のおかわりはどうしますか?」姉さんが有彦様の置かれたカップが空なのに気がつきました。「お願いします。いやぁ、七夜さんの淹れるお茶が美味しいもんだから、グイグイ飲んじゃいますよ」有彦様が、冗談混じりに返します。「志貴さんと翡翠ちゃんはどうしますか?」「ついでだから、俺も貰うよ」「私も…」「あらら〜、これだとお湯を足してこないといけませんねぇ〜。それじゃぁちょっとだけ席を外しますねぇ〜」そう言うと、ティーポットを持って、姉さんは食堂の方に行ってしましました。「……なんか、やたら機嫌が良いな。七夜さん。足取りが異様に軽かったぞ」とは、姉さんが食堂に向かう姿を見ての志貴様の弁です。「私も…あんなに上機嫌の姉さんを見るのは久しぶりです」私がそう言うと、また志貴様が何かを思ったようです。「よっぽど紅茶の味を誉められたのが嬉しかったんだろうな」と、有彦様の方に視線を流しながらつぶやきました。「遠野。お前ってやつは、なんでそう大事なことを抜かすんだ」有彦様が両腕を組みながら、何やら不適におっしゃいました。「なんだよ?大事なことって??」「『俺に紅茶の味を誉められて』七夜さんが喜んだんだろ!」「「………」」志貴様と私は、姉さんが戻ってくるまで返す言葉を見つけることはできませんでした…。「―――で、なんの話しだったっけ?有彦」姉さんが戻って、紅茶を淹れなおしいるときに、ようやく志貴様が会話の口火を切りました。「『嘘をつくのは急いでいるってことだ』っていう話だろ」有彦様が答えます。「それで聞きたかったんですが……」「なんだい?翡翠ちゃん」「何故、『嘘をつく』ことが『急いでいる』ということになるのですか?」有彦様の先程の言葉では、私は今ひとつ納得ができなかったのです。「そうだな。それは俺も気になったよ」「そうですねぇ〜。有彦さんの先程の言い方では、少し舌足らずですよ」志貴様と姉さんも同意してくれました。有彦様を除く全員が、有彦様に視線を集中します。「う〜ん、例えた方がわかり易いな。…俺が何かしようとするだろ。そこに姉貴が登場する。けど、俺のしたいことってのは、姉貴には言い辛いことなんだとする。そこで、『嘘』をつく。確かにその場ではいいかもしれないけど、相手に嘘だと知れたとしても知れなかったとしても、どっちにしろ、俺にとっては良い事ではないよな。そういう点で、俺は『嘘をつくことは、急ぐことだ』って言ったわけ」一度にたくさん喋って咽喉が渇いたのでしょう。姉さんが淹れてくれた紅茶を、本当に美味しそうに飲みます。「つまり、嘘をつくことも、急ぐことも、どちらもあまり良い事ではない、ということでえしょうか?」姉さんが、有彦様の言葉をまとめます。「そうっ!そういうことだよ。いやぁ、流石は七夜さん」有彦様が嬉しそうに笑います。「なるほど…そういうことでしたら、納得がいきます」「うん。俺も」「よし、それじゃぁ堅苦しい話はこれくらいにしようか」有彦様が、私達が全員納得がいったのを確認すると、今度は話題を転換しました。この後、私達はしばらく歓談したあと、午後の3時を過ぎた辺りで、お開きにすることにしました。「それじゃぁ七夜さんに翡翠ちゃん、お邪魔しました」「また、いらしてくださいねぇ〜」「今日は……実りのあるお話、ありがとうございました…」「おいっ、有彦!俺は?」「はははっ、細かいことを気にするな、親友。じゃぁなぁ〜〜〜」そう言って、有彦様は元気にお帰りになられました。玄関の門が重いことが、少し意外そうでしたが。その夜、私が仕事を終えて志貴様と志貴様のお部屋で一緒にいると、志貴様が椅子に座って足を組んだ状態のまま私に話し掛けてきました。ちなみに、私は夜の見回りを姉さんと交代で行なう必要があるので、メイド服のままです。志貴さまは早々にお風呂に入られたために、今は寝巻きでこそないものの、Tシャツにチノパンという軽装です。「……翡翠。今日の有彦の話、どう思った?」言葉の端に、何かを期待しているような雰囲気があります。「私はどうなんだろうか、とは思いました」志貴様が困ったような顔をしています。「何が『どう』なんだ?」「……姉さんに対して、嘘をついていないか、ということです」志貴様はふむ、といった風にすると、足を組み直すとそのまま何やら考え込んでしまいました。それで、私は気がついたことを聞いてみることにしました。「…志貴様?今日、有彦様にお姉さんの話をさせたのは、志貴様ですね?」考え込んだ様子だった志貴さまが、驚いた様子で、組んでいた足を解いて、身を乗り出すようにしています。「私が本当に気がついていないと思っていらっしゃったんですね」「いつ…、いつ気がついた?」まるで子供が完璧だと思っていた嘘が、母親に見透かされていたことを知ったときのような驚き方をしています。「いえ、有彦様が急にお姉さんの話をした辺りで、あれっとは思ったんです。確証は無かったですけど、今の志貴様の驚き方を見て、確証を持てましたよ」「あちゃ〜〜、俺ってやっぱり嘘が下手なんだなぁ…」手の平を顔にあてながら、立っている私を上目遣いで見ています。「ふふふ、でも、別段、嫌いではないですよ。志貴様のそういうところは」実際、この方の長所でもあり、短所でもあります。「それに、幾分気が楽になったのも確かです。姉さんとも、今まで通りに付き合っていきます。それがお互いにとって一番良いんですよ」「ん、焦っても仕方が無いからな。とにかく、そう言ってもらうと、俺も苦労した甲斐があったよ…うん」志貴様が本当に嬉しそうに安堵します。やはり、私にとっては、素直なことが短所などよりも長所として写ります。「えっと今10時か…。翡翠は12時に七夜さんとの交代まで見回りだろ?」「はい」私と姉さんは、夜に大体2時間ずつお屋敷の見回りをしています。昔はそれこそ朝まで交代を繰り返しながら見回ったものですが、槙久様がお亡くなりになってからは人手も減りましたし、防犯設備も整いましたので、最近では1度ずつ見回るだけになっています。「じゃぁ、12時からはここに来れるな。俺は明日休みだから、そんなに早起きする必要もないから、待っていられるよ」「はい。では見回りが終わってお風呂に入り次第、ここに来ますね」私がそう言うと、志貴様が立ち上がって、私を抱きしめてきました…。「…仕事、頑張ってきてな」「…はい、行ってきます」と、私が志貴様から離れようとしたとき…「翡翠ちゃ〜ん、見回りの時間ですよ〜…って、あら〜。またやってしまいましたねぇ〜」「「!」」…姉さんが部屋に入ってきました。「ね、姉さん!!ちゃんと部屋に入るときはノックしてください!!」興奮と恥ずかしさのあまり、自分でも顔が赤くなっているのがわかります…。「いやぁ〜、流石に時間がまだ早かったんで、大丈夫かな〜って…」悪気があるのかないのかわからない様子で姉さんが謝ります。「とにかく!!今後はこういうことが無いようにしてくださいよ、姉さん!!」「は〜〜い。わかりましたよ」そう言うと、姉さんが部屋から出て行きました。「ふぅ〜〜、まったく。姉さんたら…」「ははは、でもさ、1人で鬱憤を溜めるよりは、今みたいな方が良いだろ?」志貴様が聞いてきました。「それに、俺もその方が楽しいし…な」……!!「もうっ!!志貴ったら他人事だと思って!!!」あっ、と思ったのは、志貴と言ってしまった後でした。「ほらな?翡翠は興奮しているとボロが出易いから、今みたいに嬉しいこともあるんだよ」志貴が楽しそうに言います。「……もう、とにかく、行ってきます!!」「はいはい、行ってらっしゃい」そう言うと、私はソソクサと部屋から出て、見回りに出かけました。ああ、また肝心なことを聞き忘れてしまいました。志貴様が何故、姉さんに七夜と言う名前をつけたのか、を……。