第八話「第六十三番」

「マスコミ封鎖はどうなった!ケーブルテレビはもう特番に切り替えやがった」
「空にフェンスは置けませんから」
「犯人側が空からの映像を見たらこちらの動きが筒抜けになるんだぞ!」
 そんな会話があったりなかったりしている最中、現場に張り付けになっているソロモンは、何気なく空を見上げた。自分がここにいる限り、プロファイル資料の相手ならば、背中よりも前に注意を向けるはずだった。天に祈るのは性分ではないが、こちらの背中にはそれ相応の奴らがついているのだからと上を見上げたのだった。
 遠めに見れば、鴉か何かが横切っただけのように見えた。その物体はヘリコプターの稼動中のテールロータ、それも一本だけを直撃し、なおかつその物体は空き缶にでも当たったかのように通り過ぎていったので、ヘリを操縦していた人物も、衝撃と間断無く響いたアラートのけたたましい音を聞くまで、異常には気づかなかった。
「鮮やかなものだ」
 ソロモンのその言葉は黒鍵を投げたシエルに向けてのものだったが、当の彼女はというと、通勤途中に見つけた足元のゴミをゴミ箱に入れたぐらいの気持ちでしかなく、彼女は彼女なりの目的に向かって、猪突猛進していた。
 かくして、司令部の懸念はヘリコプターが故障のためにポートに戻ったことで現実にはならなかったわけだが、これはほんの幕間の出来事でしかないことは、事態を呑み込めている者たちにとっては明らかなことだった。
「一五分経過……そろそろか」
 ソロモンの勘は正しく働いていて、それはそのままゼフィールにも適用される。ソロモンが裏口前で見た「二発の」弾丸と、それに続いて断続的に撃たれた弾丸の間隔、それと風向きが連動していることに気づいたのはこの二人だけだ。もちろんそれには、一コンマ五キロ超の狙撃が可能な人物がこの世の中にはいるのだということを知識と経験で知っている必要があったが、この二人にそれは問題ではなかった。
 ヘイグがピースマークを発見して机に八つ当たりしている頃には、ゼフィールは既に目標がいるビルに屋上伝いに到達していて、残る問題は、何階のどの部屋から狙撃しているかということだけだった。ズボンの後ろに引っ掛けてあったインカムを付け直してから、ゼフィールは建物内部に突入した。
「この手じゃ銃は無理かな」
 相手の頭に突き付けでもすれば話は別だが、酸化していない青銅のような手先で、狙いをつけるのは無理だった。使えるのは片手両足、それに散々馬鹿にされている頭、それに嗜み程度のナイフだけだ。死徒が相手ではないのが唯一の救いといったところだろうか。市街戦と工作活動に関しては埋葬機関時代からの定評があるものの、対死徒戦に関して、ゼフィールには特化された能力も技術もない。イタリアでエンハンスを相手にこらえることができたのも、相手が自分の能力を珍しがったからこその話で、それすらも意に介さない相手であれば、そもそも勝負を挑もうなどとは思わなかった。しかし、今回は違う。相手が卓越した技術と経験を有していたとしても、所詮は人間の範疇でしかない。ソロモンやシエルに頼らずとも、相手を組み伏せる程度のことはできるはずだった。
 撤退のことを頭にいれているはずならば、非常口や階段からそう遠くない部屋に陣取っているはずであるから、それを念頭に一部屋ずつ確認していくのがベターではあったが、そうしている時間は無い。どうするかと考えながら一番上の階の廊下を歩いていると、表札などによってここがベンチャー用にオフィスを貸し出しているビルなのだということがわかった。夜をここで明かした者以外は、今朝からの道路封鎖のおかげでビルには立ち入っていない。
 ゼフィールが鍵のかかっていなかった「テルワークス」と書かれたドアを開けると、そこには苦そうなコーヒーがたっぷりと入ったコーヒーメーカーを片手にぼけっと突っ立っている、野暮ったそうな男性が一人いた。彼は何事かと思いつつ、朝早くに滅多にお目にかかれない美人を前にして、少しばかりずれていたコンタクトレンズを眼を瞬かせて直した。
「えっと、あいにく、変なサービスならお隣さんに行ってくれると助かるんだけど」
「そのお隣さんはどんな商売を?」
「僕もよく知らないんだけどさ、一週間前くらいから、航空会社用の無線機の卸だとかいって入ってきた会社なんだよ。おかげで引越しやらなんやらでドンドンうるさくてさぁ。今朝も防音壁越しに何か鳴ってるんだけど、ほら、僕、徹夜が――」
 たどたどしい喋り方から、あまり女性に縁が無い商売をしているようだった。五人分のテーブルがスペースごとに設置されていて、その間を抜けた先に、ベランダがあった。どうやら、一階あたりの部屋全てとつながっているらしかった。
「ベランダ借りるぞ」
「じ、自殺なら他所でやってくれよ!」
「やらねぇよ!」
 自分はそんなに危なっかしく見えるのだろうかと疑心暗鬼になりつつも、膝丈ぐらいあるフェンスを乗り越えて、ベランダに出た。なるほど、ここからは遠くはあるが風の通り道に支局の狙撃目標がある。ソロモンのことだから、こちらを見ているに違いないと思いつつ、エアコンの換気器具の陰に隠れながら件の隣の部屋の方を見ると、配管が不自然に突き出ていた。脅しが効く相手とも思えないが、無事な方の手で銃を持つと、慎重に隣のベランダへと歩み寄る。足元はそれほど広くないが、補修作業に必要な程度に補強されていて、七階の高ささえ気にしなければ問題は無い。
 あと一歩で窓に体が透けるというところで、例の女性隊員の腰元からくすねてきたスタンボムのピンを抜き、窓を割って放り込むと、自分は急いで伏せた。
 これまでの比ではない音量が辺りを包む。これで相手がまだ中にいれば戦闘不能になっているであろうし、逃げていれば露払いができたとでも思えば良い。ゼフィールが部屋に入ったとき、中には誰もいなかった。足元に転がっていた煙草の箱から一本を失敬すると、それに火をつける。誰も隠れていないことを確認していると、足に薬きょうが当たった。それを拾い上げると、まだ焼けどするほど熱かった。傍には対戦車用のライフルがオブジェのごとく置かれていた。
 薬きょうを捨てながら、出入り口のドアに目を遣ると、鍵がかけられ、無理に開けようとすると手榴弾が爆発するよう、ブービートラップが仕組まれていた。
「……変だな」
 逃走のことを考えたら、出入り口にブービートラップを仕掛けるのは、わざわざ自分の逃げ場を少なくするようなものだ。それに、ライフルを置いていったことも気に障る。警察の封鎖を突破する際に邪魔だから置いていったというように考えることもできるが、それはまるで、自分は完璧だという自信に満ち溢れた死神が自分の鎌を置いていくようなものだ。
 煙草の煙がおかしな方向に流れていることを、彼女は見逃さなかった。それと同時に、部屋の側面に換気扇が設置されていて、そちらにも部屋があることにも気づいた。身勝手なスナイパーはそこにいて、自分がそこに通じる扉を開けるのを待ち構えているのではないか。
 彼女は意識的に体をもう一方の部屋の扉の延長線上から外す。次に扉の前に立つとき、それは闘いの始まりを意味する。
「おい、ソロモン」
『……なんだ』
 雑音が入るインカムを指先で叩きながら交信すると、じきにソロモンが返事をする。昼寝の邪魔をされたときのような声だった。煙草を吸い込みながら、結果だけを伝えることにする。
「追い詰めたよ」
『そうか』
「部屋ごと吹き飛ばす方法、無いかな」
 下手に何かを放り込もうとすれば、その隙を突かれかねないし、逃げられる可能性もある。包囲網が完成していない中、それは拙い。ベランダから進入する方法も、二番煎じでは危険が高い。
『殺すのはまずい。関与した犯罪についての追及に必要だからな。確認したいんだが、そいつはもう私をスコープ内に捉えてはいないんだな?』
「ああ」
『わかった。時間を稼いでくれれば、後は私がやる』
「それって、とりあえずお前がなんとかしろってことだよな」
『そういうことだ』
 ゼフィールにとっては、何のプラスにもならない。後詰に関しては元から誰かに任せるつもりだったし、自分としては今この状況をなんとかしてもらいたかったからだ。愉快そうに抑揚を変えながら交信を終えたソロモンに後で言う愚痴の一つを考えながら煙草を吸いきると、行動にあたっての準備を開始した。
 銃の弾装を一度抜き、代わりに謹製のゴム弾を装填する。ゴム弾といっても、あくまで規格的な呼び方でしかなく、弾頭は塩の塊だ。
 次に常時持ち歩いているダクトテープで、使い物にならない方の腕にナイフを篭手のように固定した。相手を行動不能に追いこむには、腱を切るのが確実だろう。
 最後に、ゼフィールは記憶を掘り起こしながら、指先で地面を相手に何かの図の引き方を確認した。それはソロモンにある手を強引に使わせるには必須のものだった。
「よし」
 誰に対してでもない掛け声を出すと、腹のあたりに力を入れた。恐らく、隣の部屋の扉にはブービートラップは仕掛けられていないだろう。そう考え、怖気づきかねない状況の中、扉を蹴りつけていた。予想していた銃撃はなかったので、扉の脇に滑り込ませた体を引きぬくと、隣の部屋に顔を半分入れた。見たところ誰もいないが、汗ばんだ体臭と硝煙が混ざった、基地のロッカールームのような匂いや、不気味なくらいに静かに部屋に満ち溢れた殺気から、そこにスナイパーがいることは脅迫的なまでに実感できた。
 手近な安全地帯である二メートルばかりある冷蔵庫の裏に飛び込み、もう一度、相手がいるだろう部屋の奥へと顔を向けると、今度は銃撃があった。咄嗟に顔を引っ込めて二発の銃弾をやり過ごす。磨ぎ込んだナイフの反射を利用して奥を覗おうとしたが、窓から入る逆光でそれは叶わなかった。
「良い匂いだ……女か」
「あんたは最悪の臭いだよ」
 思わずかけられた言葉に、反射的に声を出す。まずい煙草を吸っている割には、相手はそれなりに鼻が利くらしかった。
「なんで仲間を狙った?」
 ドッグことケネスのことだというのは、相手にもすぐ伝わった。
「腰抜けを仲間だと思ったことなんて無いね」
「仲間を腰抜け呼ばわりするわりには、あんたも隠れてばかりだな」
「顔を見せたことが無いのが自慢なのさ」
 このことから、「猫」か「鶏」が相手なのだと推察できた。いやらしいブービートラップからして、どちらかというと前者の可能性が高いことも。
「時間を稼ごうとしても無駄だ。やろうと思えば、いつでもここを爆破して俺はとんずらできるんだ」
「なら、どうしてそうしない?」
「俺はへそ曲りが嫌いだからさ。嫌いな相手は徹底的に痛めつけてやる。お前のお仲間はそうはいかなかったけどよ」
 時間を稼ぐために、相手の挑発に乗る必要に迫られたゼフィールは、七発しかない弾丸の内、一発を相手がいるだろう方向の地面に撃ちこんだ。それにより一時的に沈黙が辺りを包んだが、それもすぐに終わった。
「ゴム弾なぞで俺を殺るつもりなのか?」
 それについては反応しなかった。これからは行動で示す時間だ。また、相手が弾痕を確認できる位置にいることもわかった。確認を終えると、残り六発の内、五発を同じ場所に撃ちこんだ。その途中、三発ほど撃ち返され、肩の部分のシャツを掠めたが、気にせず撃ち続けた。
 それを終えると、今度は特性の煙草ケースから一本を取り出し、それに火を付けると、手榴弾よろしく投擲した。有効範囲は狭いながらも、昨今の臭いの研究で蓄積された古今東西の嫌な臭いをエッセンスにした煙に炙り出される形で、相手が飛び出してきた。飛び出してきたといっても、無防備ではない。低姿勢のまま一気に距離を詰めてくる。とはいえ、全く効いていないわけではないらしく、途中で一発だけ撃たれた弾丸は、迎え撃つために物陰から出ていたゼフィールには当たらず、あられもない方向に着弾した。
「ふざけやがって!」
「臭ぇんだから近寄ってくんな!」
 お互いに相手をけなし合いながら、ナイフの一撃をいなし合う。相手の顔はターバンのようなもので覆われていた。隙間から見える目元には皺が寄り、片目はその上についた傷によって、半ば潰れたようになっていた。この様子だと、素顔は傷だらけだろう。
「砂漠のロレンス気取りかよ」
「マスクは蒸れるから嫌なんだ」
 時折交わされる会話から、お互いの隙を覗う。そうしながら、ゼフィールは相手の動きにキレが無いことに気がついた。しかし、それを補ってあまりある、影が動くがごとく滑り出てくる腕と、構えられたナイフによって、戦闘力は十分なほどだ。
 久方ぶりの高揚感に陶酔する余裕は無いながらも、ナイフが突き出される合間にそれぞれの肘やつま先を体に受けて、それすらも度し難い快楽的な欲求によって傷つけ合っていく。
 そして、どちらが先立ったか、相手の腕を取ることになる。結果として相手を腕ごと組み伏せたのはゼフィールだったが、少しでもタイミングが違えば、立場は逆転していた。そんな際どさの上で成り立つ技は脆く、片腕のこともあり、ゼフィールはいとも容易く相手を脱出させてしまう。それでも、相手に打ち身を負わせることはできた。
「若いってのは良いもんだ。俺のように怪我を気にしなくて良いんだからな」
 そういって、残念そうに、本当に残念そうに、ターバンの男は銃を突き付けた。それが可能な間合いになってしまっていた。そんな彼ではあったが、ターバンが崩れていないか手を遣る余裕はあった。そういった仕草が、ゼフィールには年寄りが若者に対して誇りという最後の牙城を見せびらかすように見えた。
「醜いもんだな、顔も見せられない年寄りってのは」
「その顔も見ることなく、お前は死ぬのさ」
 ターバンの男が銃口を向けなおしたとき、ゼフィールは叫んだ。
「ソロモン、準備はできたぞ、とっととあれをやりやがれ!」
 驚いたターバンの男が引き金を引いたが、ゼフィールは瞬時に側転し、そのまま傍に積まれたダンボールの中に突っ込んだ。ターバンの男がそこに銃を向け、全ての弾丸を撃ち放とうとしたが、その行動がまずかった。そんなことをせず、すぐに逃げ出せば良かった。彼がそのことを思い知らされる前に、ある図を塩の操作によって完成させられていた地面から、数本の剣の真っ直ぐな刀身が鴉の羽のようなものを舞わせながら、直上に突き出てきた。ターバンの男が銃を持っていた片腕は切り落とされ、痙攣した筋肉が空しく指を動かす。片足の膝下には剣の先端が突き刺さり、折れた向こう脛からは骨が露出する。しかしながら、あらゆる剣は重要な胴体を避け、もしくは掠めて、天井へと突き進み、そこを突き破ろうとしたところで、動きが停止した。
 ターバンの男は気絶したのか、刀身にそうさせるような作用があったのか、沈黙した。ゼフィールが崩れ落ちたダンボールの塊から頭を出して、凄惨な処刑現場をしかめっ面のまま見ていると、外の方から声がした。
「ゼフィール、ゼフィール!」
「あ、馬鹿、そこ開けるな!」
 言うが早いか、ソロモンが一方の部屋の廊下側の扉を開けると、数秒の気味の悪い沈黙のあと、爆発音がした。それと供に幾らかの粉塵が隣のゼフィールたちがいた部屋にまで入ってきたが、幸い、建物の構造に影響を与えるほどの爆発ではなかった。
「おーい、大丈夫かー」
 また気味の悪い沈黙が辺りを制する。しかも目の前には不安を象徴としたようなオブジェが鎮座しているわけで、ゼフィールはいっそう心配になった。そんなわけで、ソロモンが悠々と部屋に入ってきたとき、思わず抱き着いてしまったのだが、もう少し、彼女は配慮すべきだった。
「いた、いた、いたたたたたた、痛ー!」
「どうしたんだ、私はお前の労うために握手をしているというのに。傷ついたぞ」
「傷ついているのはこっちだ!」
「ああ、知っている」
 そういいながら、ぶんぶんとゼフィールの怪我をしている片手を上下に振る。巻き付けられたナイフに当たらないよう、かつ、致命的な損傷を与えないよう、巧みに相手に痛みを強いている。
「良いからはなせ、はなして、はなしてちょうだい!」
 命令形から懇願に至って、ようやくソロモンは言葉どおりにした。埃にまみれてしまったスーツジャケットの襟を直しながら、ターバンの男に目を向ける。
「まったく、アンドラスを強引に召換したおかげで、奴は不機嫌だぞ」
「だってよ、お前さん、あわよくば俺に全部始末つけさせようとしてただろう。だから、つい、前に見たお前が作った図形を……」
 まだ痛む手に息を吹きかけながら、ターバンの男の真下にある、幾何学的な図形に目を落とす。いくらか血で汚れてはいたが、たしかに図形と判断できる程度に原型は留めていた。
「馬鹿をするな。一つ間違えれば、この建物ごと契約不履行で切り刻まれかねなかった」
「どっちにしろ、お前が召換の手引きをしなけりゃ、こうも上手くはいかなかったよ。あれが生きてるかどうかは怪しいけどさ」
「その点に関しては心配無い」
 そういってソロモンが指を弾くと、剣と供にターバンの男は図形に吸い込まれていった。彼によれば、不機嫌なアンドラス君が支局の看護チームのところに送ったとのことだった。
「心配といえば、『犬の人』はどうした」
「『犬の人』だなんていう言いぐさは止めろ。話は後だ」
 そういって、ソロモンは一足先に部屋を出ていった。不機嫌そうな背中を見送りながら、気づけば、傷ついた片腕は、元通りになっていた。