第十五話「解脱促進」

 ここは山のお宿「蕗」の職員用の食卓である。職員といっても目下のところ二人しかいないのだが、今日は賑やかだった。別に二人しかいなくても賑やかであるから、この表現は上手くない。華やかさがあった。別に食卓がそう誂えられているからではない。なんせこの食卓は、よくある木製の長脚のテーブルにこれまたよくあるビニール製の花柄をあしらったカバーがかけられただけという、実に家庭的なものである。華やかさがあるとすれば、食卓の真ん中にある一輪挿しぐらいだ。視界を食卓から思い切って広げてみると、天井では換気扇で吐き出しきれなかった煙やら匂いやら湿気やらが染みを作っているし、場所によっては古くなった油の匂いがぷんぷんしている。業務用の大きな冷蔵庫からはうんうんという駆動音が鳴っている。音といえば達磨ストーブの上の薬缶は口からひゅうひゅうと蒸気を吐き出して乾燥しがちな部屋に湿気をばら撒いている。そんな中にあって、アルクェイドとナルバレックの二人は華やかであったが、前者は緑茶をがぶがぶと秀也と競うようにして飲んでおり、後者は眠気を覚ますために外していたサングラスを再びかけて爪楊枝でしいしいと歯に詰まった野菜のカスを取り除いている。彼女らは自分の行為がこの国の洗練されたスタイルだと思い込んでいるような節すらある。女性は屁も脱糞もしないなんて妄想を抱いている人間が見たら卒倒しかけない状況ではあるが、誰も気にしていない。気にしていないので、自然、話も気兼ねの無いものになっていた。
「豚汁っていうの? あれはちょっと塩辛かったかな。舌が重くなる感じがしたよ。あの変なぐにぐにした煮物は美味しかったけど」
「岩塩を平気で丸かじりしてそうな印象だが」
「失礼ね。こう見えても繊細なのよ」
 少なくとも繊細なのは腹ではないらしい。ナルバレックは視線が察せられないのを良いことに相手のその辺りを見下すと、自分の分の湯飲みに注がれた緑茶を美味そうに飲み下した。
「ねえ、ロズィーアンの城を壊したのって、あなた?」
 途端、未だに慣れていない苦味が舌を這う。気兼ねが無いにも程があるのではないか。ナルバレックがそれとなく管理人姉弟に目を遣ると、二人は何かを察したのか、それとも鼻からそのつもりだったのか、カードゲームらしいもの――花札である――を、引っ張り出してきた椅子の上で興じており、片方が奇声を上げて「それは役になってない」と言い、もう片方が「花札なんだから花がドラでしょう」と言い返し、更に片方が「それじゃ麻雀だし、ドラだけじゃ和了れないだろ!」と言っているから、問題は無かろう。アルクェイドは最初から二人のことは気にしていないらしく、首を長くしてナルバレックの返答を待っている。ナルバレックは、どこまで明かしたら良いかの算段をつけてから、頷いて見せた。
「なんでよ。あんなの、毒にも薬にもならないじゃない」
 ロズィーアンは先代までもそうだったが、現在の祖であるリタに代替わりしてからは余計にどうでもよくなった。子飼いの死徒や彼らが拾ってきた人間で細胞の研究をしていると風の便りに聞いたと思えば、スクラップの芸術性についてなどという二番煎じな上に洗練も昇華もされていない論文を人間の名義を借りて発表したりもしており、そんなリタが普段どんな生活をしているかといえば、足を踏み入れただけで酔いで頭が狂うほど濃密な酒気と目が潰れてしまいそうな生の彫像がある部屋で某かを相手に股を全開にしているというから、よほどのおめでたさである。こういう輩は先が短いのはよく理解しているが、それでも欲求や快楽に忠実で、さながら、自分の尻尾を食べる蛇のようなものだ。そんな輩は、気が済むまでそっとしておけば良い。飽きたら飽きたで良かろうし、頭まで食べてしまったらしまったで構わない。死徒の中にはロズィーアンのような貴族、引いては貴族性を尊重している者も多いから、そういった奴らを大人しくさせておく意味でも、下手に手を出すのは躊躇われるのである。
 それだというのに、ナルバレックは昼に作戦開始の合図を出し、三時のおやつの時間までに事実上のロズィーアン王国を壊滅させた。アルクェイドが確認した限りではリタ自身は難を逃れたらしいが、代々に渡って守ってきた領土と城――各国の衛星写真では全て別の地形に差し替えられている――は埋葬機関が世々に渡って洗練・簒奪してきた洗礼という名の呪いでペンペン草も生えないほどに蹂躙された。具体的には、ハンマーを持った一個中隊が城に突貫し、それを追いかけようとした単純な頭ばかりの死徒千体を後方から異名を誇る第何位だのが率いる本隊が奇襲、といった具合で、それが主要な作戦である。他の各個撃破や殲滅作戦もなかなかの見応えであったが、ビクトリア宮殿ほどの大きさがある城をハンマーを持った連中が衛兵役の死徒ごと叩き潰していく様に比べたら、可愛いものである。一時、近隣のトルコなどから確認のために事情を察知した軍の部隊が駆けつけるなどの事態もあったが、概ね、滞りは無かったようだ。
「有用じゃないものが傍にあるというだけで腹が立つ」
「なんだ、あの近くなの? あなたの新しい住処」
「別に住んでいるわけじゃないが……本籍を訊ねられたらそこだと答えるな」
「黒海に溢れそうな勢いだったなぁ、逃げ出した連中」
 アルクェイドにしてみれば見慣れた光景であるが、埋葬機関などで囲い込みに参加した人員の中には毎回のように発狂者などが出る光景でもある。少しでも血を残そうとねずみや鹿だけでなく川の魚に噛み付く死徒に武装の一つでも叩き付ければ、全身からエボラ出血熱よろしく血を撒き散らして絶命したり、仲間に組み付いた死徒を仲間ごと突き刺して呪いを返されたりと、阿鼻叫喚と銘を打てるぐらいの光景がそれである。かく思い出すアルクェイドはというと、その囲い込んだ部隊の三分の一にあたる数を巻き添えにしつつ死徒勢を千切っては投げ千切っては投げしていたのであるが、その点についてナルバレックは指摘しなかった。それでもなお、予定を下回る損失だったからである。彼女が計画した以上に、元埋葬機関の組織は洗練されている。今回は計画が漏れないよう一週間で立案・実行された作戦であったから、今回の成果はかなりのものだ。彼女はそれが確認できた分、幸運だったとすら思っていた。強いて残念に思うことがあるとすれば、そういった成果を楽しみにして小汚い仕事を引き受けていた人材が手元に戻ってこなかったことだろうか。今頃は死んでいるのか、死徒にでもなっているのか。ナルバレックが頭の中で面白そうな、それでいて建設的な発想は無いものかと思考を繰っていたのを、アルクェイドが会話で遮る。その内容はナルバレックにしてみれば、最も面白そうな類のものだった。
「放っておいてもどうせあなたたちが上手くやったでしょうけど、今は必要以上に騒ぎを広めたくないのよ。あなたたちみたいなのが一杯いるおかげで、見た目には綺麗なものだけど……これ以上バランスが崩れたら、どこから綻びが出るかわからないもの。そうなったら、私もこんなことはしていられなくなる」
「まるでこんなことをしていたいような言い方だが?」
「少なくとも私は現在の二十七祖が滅びるまでは目を瞑っていたいの。白翼公がけし掛けてくるのなんて可愛いものよ。牙が私に向いている分には大規模になりはしない。問題は、私や彼ら、それにあなたたち以外の人間までがこんな馬鹿げた戦いでここを滅茶苦茶にしちゃうこと」
 ここ、という部分にそれなりの意味を認めたナルバレックは、それが地球のことだと察した。母なる大地、雄大なる自然、青き空、深遠なる海……。使い古された装飾で塗り固められた世界。その一つ一つの言葉を口の奥で咀嚼する度に、ナルバレックの頬が歪みを増す。頬にかかった髪のおかげで傍目にその様子を窺い知ることはできない。
「馬鹿げてるのは真祖と死徒どもだけさ。個体差がありすぎるのは、それだけで問題だ。ここはある程度均質化された者達が営みを享受できる世界でなくてはならない。だから私は、いつか目の前の悪姫を狩る」
「誰も人間自体を否定なんてしていない。ただ、人間は個体差が無いあまり、とんでもないことを仕出かそうとする。だから、私みたいなのがいる」
「ならば、死徒はどうしてしまっても良いだろう?」
「それはもちろん、死徒がいなくなってしまうのが一番良いことよ。でもね」
 その先は聞くまでも無いといった風に、ナルバレックが大げさにかぶりを振る。傷跡を触る髪の毛が、少しだけ煩わしかった。
「多少は揺らぎを持ったかと思ったが、やはり本質は変わらんか。猟犬は獲物を狩り過ぎることはない。それが誇りだと勘違いしてな。貴様らは均衡だのを主張するが、その実、その均衡を崩す存在自体を容認している。二十七祖が滅びるまでは、だと? 笑わせるな。エンハンスのような奴ばかりなら良いが、貴様もよく知っている者や、第一位などはどう考えても滅びる前に滅ぼす手合いだ。そんな連中を野放しにしている貴様が、私にとっては誰よりも滅ぼすべき対象となるのは道理だ」
「本音が出たわね。要するに、あなたは私みたいなのが気に食わないだけよ。道理だなんて格好つけたって、誤魔化せないんだから」
「憤る対象を間違えるな。貴様らは、蝙蝠のようにただ血を吸うだけでなく、それに加えて思考を持ってしまったことを憤るべきだ」
「あなたみたいなのが人間側に一人ぐらいいるという事実が、案外、救いなのかもしれないわね……」
「なんだと?」
 果ての無い、それでいていつかは行き着いてしまうだろう問答が続くかと思われたとき、アルクェイドが疲れたように首をゆっくりと回した。
「そろそろ止さない? お互い、人格自体を責めてる気がする」
「何を馬鹿な。私は最初からそのつもりだ」
「それってもしかして、塩がどうのってあたりからってこと?」
「そうだが……何か変なことを言ったかな」
 それまで、少なくとも緊張感らしいものは保っていたアルクェイドの表情が、悪戯っ子のものに変わる。彼女がそんな表情をするとナルバレックは思っていなかったが、数々の報告書などから知っていた事実を頭の中から取り出すことで、なんとか平静を取り戻す。その間隙をアルクェイドは見逃さなかった。
「この人、馬鹿だよねぇ」
「馬鹿ですねぇ」
 それまで完全に蚊帳の外に出されていた蕗がアルクェイドに賛同した。そのこと自体にナルバレックが驚くと、珍しく声を荒げる。
「フキ、それは聞き捨てならんぞ。そこの血呑み女に何を言われようと構わんが、お前に言われるのは不本意だ」
「さっきからお二人が何を仰ってるのかさっぱりわかりませんが、塩加減のことで人を責めるのは馬鹿なことです。良くないです」
「いや待て、そもそも塩辛かったのはシュウヤの所為だろうに」
「ああ、やっぱりこの人、馬鹿だよねぇ」
「馬鹿ですねぇ」
 この二人はどうかしてしまったのか。ナルバレックがそんなつまらないことで困惑していると、姉製のルール上で役をどう作ったものかと考え込んでいる秀也が彼女の目に映った。
「大体だな、一番の馬鹿はやはりシュウヤじゃないか。そうだな、シュウヤ。お前は馬鹿だな」
「はあ、すいません、次回からはもう少し甘めにします」
「秀ちゃんは悪くないですよ。味見をしたのは私なんですから」
「酷い女だなぁ。そんな女を泊めてくれている姉弟を虐めるなんて、つくづく酷いなぁ」
 言うべき言葉を失くしたナルバレックの頭の上にレンが飛び乗ったが、彼女はもう何をする気にもなれなかった。帰ったら早速、真祖狩りについての概算をまとめよう。そう考えることで、なんとか正気を保っていた。その唯一の安心も、コンマを切るどころか〇と出た成功の可能性によって打ちのめされることになるが、それはまた後日の話である。彼女は蕗が寝なおすのであれば止した方が良いと言うのも聞かず、強引に魔法瓶一杯分のコーヒー受け取ると、アルクェイドには目もくれずに自室に篭ろうと食卓を離れた。彼女の頭の上に乗っていたレンはというと、再びどこぞに向かって走り出していった。彼女が自室に入ったとき、時間は既に深夜十一時を回っていたが、以前から持ち込んでおいた無線機から衛星を通じて交換手がいる横田までの回線を開く作業に腐心した。事前に受けた説明通りに、各スイッチをハンダ付けしていく。いささか古いタイプであるから、予想以上に周波数の調整とそれに合わせた改造、それに工作部謹製の暗号送受信及びエンコード・デコード用の部品を取り付けることに時間を奪われたものの、日付が替わる頃には、守秘回線が何度かのテストによって確立された。コーヒーが冷めないようにと急いだ結果であったが、彼女の場合、急ごうと慎重にやろうと結果を同じくするだけの適性があったので、暖かいコーヒーを換気のために開けた窓の傍で飲むという贅沢ができる運びとなった。テスト後にタイムテーブルに沿って本局から送信されているデータを交換手に拾わせ、こちらに転送させている間は暇である。それでも一杯目のコーヒーを飲んでいる間は様々なことが頭を巡り、それに関した報告は無いかと端末に視線を走らせる。今ばかりは、彼女の心は山間の宿以外の場所に飛んでいるのだった。内部にデータを記録できる端末から情報を読み取る権限があるのはナルバレックだけであるから、自然、彼女に充てた内容のものも多い。しかし、収穫は皆無だった。こちらに身を隠す前に指示した内容は滞りが無くて当然のものばかりであったから、本来であれば管理者たる彼女にしてみれば喜ばしい内容でも、今の彼女を満足させることは無かった。そこには彼女も自覚している欺瞞があって、そんな満足させる報告が耳に入れば、彼女は飛んで帰りたい気持ちに駆られ、この宿を早々に退けなくてはならなくなる。彼女なりに、ここでの生活は病んだ神経を癒しておくには調度良いものだと考えていたのだった。今夜はこれまでにしようと接続を切ると、焦燥や葛藤などは遠くに置かれる。彼女は目に見える範囲に意識を移した。
 この宿にある全ての部屋は窓が谷側に設けられていて、耳を澄ませば谷川の音が聞こえてくる。お互いの部屋を覗き見ることもできなくはないが、カーテンを閉めればそれまでの話だ。ナルバレックの部屋から満足に監視できるものといえば、彼女の部屋がある棟と現在は遠野の係累が泊まっている棟を繋ぐ二十メートルほどある渡り廊下だけだった。しかし、それすらあまり意味が無い。なんせ、遠野側はほとんどの用事を自分たちのいる棟に設置された厨房やトイレ、浴室などで済ませることができ、その支度などは連れてきた使用人に任せることになっていたから、渡り廊下を通る人間なぞ、ここの管理人に定期的に顔を合わせて何事かを確認する遠野の当主ぐらいなもので、ナルバレックはその人物に興味が無い。例の遠野志貴の妹であるということなどは以前のソロモンとシエルの報告書によってわかっていたが、志貴のような人物は血筋なぞ度外視で発生するし、その志貴にしても、今となっては直接に関わるよりは間接的に動向を操るのがより得策だ。
 ナルバレックは、三杯目になるコーヒーと、景色と、そして思索とに飽きると腰掛けていた窓枠から腰を下ろしたが、窓とカーテンを閉める段になって渡り廊下の異変に気づいた。彼女はそれが異変というほど大したものではないことは見た瞬間にわかったが、完全には直っていない時差ボケの所為かどうかはわからないながらも冴えてしまっている頭のために、無駄だとわかっていても体を動かして、部屋の外に出て行った。


 その晩、翡翠は決して時差ボケの所為ではない不眠に悩まされていた。彼女が記憶している範囲でこれほど不眠に悩まされたのは、志貴が放逐されていた有馬家から遠野の本邸に帰ってくると聞かされた日の他には、結婚式の前夜と、妊娠から出産までの何度かだけだった。実際のところ不眠症の気が出ているときはもっとあったのだが、遠野邸では夜の巡回にかこつけて、乾邸では夜の長と化している一子の夜食を作るなどして、気分を落ち着けていたため、自覚することは無かった。これで同室で寝ている琥珀さえ起きていればとも思うが、どうしたことかよく眠っている。そういえば――と、途中の休憩所からはいい加減に琥珀や秋葉に振り回されるのに疲れて車中で眠ってしまったりしたから、その所為だろうかとも考える。不眠の原因を考えること自体が不眠の原因になるのだが、そこまで頭を回すと余計に眠れなくなるのだった。いっそ開き直った彼女は、とことんベッドの中で考え込むことにした。すると、自分が思っていた以上に、息子の温もりが如何に落ち着けたかということに行き着いた。じきに小学校に上がる年齢の子供の親としてこれではいかん、とも思うが、今にそんなことを言っても始まらない。子供といえば、こういうとき、連絡を入れなくても良いものかと思いついた。うろ覚えの時差のことを考慮に入れても、連絡して問題の無い時間だといえよう。むしろ電話先に、寝なくても良いのかと心配されてしまう時間である。有彦は会社から割り当てられた衛星電話を持ち歩いているはずであるから、電話さえかければ出るはずである。こう、できるできないの話で、できるの側に天秤が傾いてくるとじっとしていられなくなってしまうわけだが……案の定、翡翠はベッドを抜け出して、琥珀の気を煩わせないよう簡単な着替えを手早に済ませ、カーディガンを羽織ると、部屋を出たのだった。片手には自分の携帯電話を持って。
 彼女が自分の失敗に気づくまで、時間はかからなかった。部屋の中に篭って考え込んでいる人間にはよくあることだが、彼女は自分の置かれた環境というものに盲目になっていたのだった。この山間部には携帯の電波が届いていなかったのである。その事実を確認した途端、渡り廊下の外側から仕切りに背中を預けて腰掛けていた体に寒気が走る。携帯電話の画面がぼうとして見えるのは、風で眼が潤んだからか、寂しさからなのか。しばらくそうしていると、規定の秒数が経っために画面の明かりが落ちる。避難の際の誘導灯が緑色に光っているのが渡り廊下の先の曲がり角に見える以外に、明かりは無い。
 明日が辛いのはわかっているが、このまま朝まで待とうかという気になっていた翡翠は、寝床では考えられなかった、今日に至るまでの何日かを思い出すことにした。自分がここに来る事を夫に伝え、夫がアメリカに出張することを自分に伝えてからの出来事は、煩雑であるあまり、もう少し時間が経たなければ、よく、思い出すことができない。ただ、羽織っているカーディガンは、一子の整えてくれた荷物を確認した有彦が、寒いだろうからと押し込んだものだったことはよく思い出せた。その後の、姉貴は近頃は家に閉じこもってばかりだから鈍感なんだとか、家に滅多に帰ってこなかった愚弟の言葉とは思えんなといったやり取りを思い出すと、自分はなんだか随分と寒いところに来てしまったんだと再三の感慨を覚えたのだった。
「寒くないのかね」
「寒いですよ」
 返事をしてから、誰かと思って振り向いた。そうして、相手の顔を確認しても、やはり誰かはわからなかった。暗がりながら容姿と声音で女性とはわかったが、それだけだ。相手の女性は名を明かさず、サングラスに隠された素顔も明かさず、ゆっくりとした動作で翡翠の隣に腰掛けた。
「こうしていると意外に風は感じないものだな。腰には悪そうだが」
「内側は石造りですけど、外側は土ですから、そうでもありません」
「日本の女性は我慢強いのか?」
「さあ……外国の女性とはあまり親しくしたことが無いので」
「それじゃ私と一時でも親しくなろうじゃないか。見たところ、先ほどから暇そうだ」
「それでわざわざいらっしゃったんですか」
「いや。実のところ、私も暇なんだ」
 一先ずは警戒心を取り下げてくれた相手に敬意を表して、ナルバレックは持ってきた魔法瓶からコーヒーを注いだ。飲んだら余計に眠られなくなると最初は翡翠も渋ったのだが、コーヒーだろうと紅茶だろうと温かければ心は落ち着くと押し切られ、それに思うところもあったのか、素直に自分の分の杯を受け取った。ナルバレックはというと、魔法瓶の蓋でもありコップでもあるそれを翡翠に渡してしまったので、部屋から持ってきた紙コップに注いだ。ぎこちない乾杯が終わると、お互いが一口目だけを飲んで、一息ついた。
「私たちの他にも宿泊している方がいるなんて、知りませんでした」
「ブリュンスタッドの悪姫には会ったのだろう?」
 翡翠は最初、その名前に違和感があったが、以前、志貴がアルクェイドのことを自分に紹介したときにその名前、いや、苗字か、それを口にしたのを思い出した。ここに秋葉でもいれば、一触即発といった状況であったが、翡翠は手に持ったコーヒーの入った杯を中身をこぼさないように揺らしてみただけだった。特別、聞きたいことがある相手でもなく、恨み辛みがある相手でもない。大事なのは、心の隙間を相手に見せないこと。翡翠はコーヒーの揺らぎの中に見出した答えを問いにした。
「……どういった関係の方でしょうか」
「関係があるかと問われれば、世の中の大半の悪事には関係しているな、私は」
「別にそういった意味でお聞きしたのではないのです。悪事は悪い方がすると決まっているわけではありません。ただ、言い方が耳についただけです」
「大きなことは気にしない癖に、細かいことは気にするんだな、君は」
「昔からそのようにお勤めをしてきましたし、それで幸せにもなれましたから」
 羽織ったカーディガンの一番下のボタンを片手で転がす。ナルバレックはそれを見ているか見ていないのか、自分のコーヒーに口をつける間は何も喋らず、それが終わると、口を開いた。
「しかし、その性分の所為で、こうして私のような者と肩を並べているのだろう? ベッドの中で細かいことを気にせず、素直に寝入ってしまえば良かった。いつかそう思うかもしれんよ。私に関わると、碌なことがない。自分から関わっておいてよく言ったものだと返されるかもしれんがね」
「私はあるがままに受け止めていくつもりです。ただ、どうしても気に容らないことは拒否させていただきます。それだけなのです」
「それが良い。真実というのは常に一つだが、その真実は至るところにある。全てを受け容れようなんてしていたら、人の歴史は千年紀では単位が足りなくなるだろうな。しかし、どうしても受け容れなくてはならないことに限って君が気に容らない場合は、どうする。そう、例えば……人の死とか」
「私は自分をそれほど増長させてはおりません。何より、死を受け容れるのは私ではなく、亡くなるその当人です。私は死そのものではなく、その人の想いを受け容れたいと思います」
「世の中には自分が死にたくないあまり、他人に死を強要することを知った上で死を免れようとする者もいる。そういった者たちについては、どう思う」
 ナルバレックはその問いが本質的にはアルクェイドに問うたものと大差ないことを心得ている。ただ、自分はあまりにも深い地点から彼らと関わってしまったために、それ以外の問いを用意できないでいるのだと、彼女は知っていた。自分の頬の傷が、そのための戒めであると言った人物は、今頃、ナルバレックが撒いた火の粉を散らそうとしているだろうことは報告を待たずともわかっている。彼女が頬の傷に手を伸ばそうとしたとき、翡翠から返事があった。
「その方たちがどのような方たちなのかわかりませんから、具体的には何も言えません。しかし……その方たちが他人の死すら受け容れられるというのであれば、一概に否定もできません」
「死という一点はなんら変わらないが、どのように容れるかは肝心なのだな。なるほど、徹底している」
「先ほども言いましたが、私はそれほど増長はしておりません」
「いや、別にボロを出させようとしているわけではないんだ。悪かった」
「ご謙遜を。あなた様は私のような人間を捕まえる度にこうしているに違いないのです」
「かもしれんな」
 あの娘と空港で出会ったときもそうだ。存外に自分は心の隙間が広いらしい。彼女はそれ以上、隙間を広げないよう、席を外すことにした。そろそろ、寝なおすには良い頃合だった。
「電話をかけたいのなら、きっかり十分後に試してみると良い。保障はできんが」
 ナルバレックが言い残した言葉を翡翠が問い質す前に、彼女はそそくさと帰っていった。魔法瓶とその蓋は、それぞれ地面と翡翠の手に残されたままだった。
 ナルバレックは部屋に戻ると、一時を五分ほど過ぎた時計とタイムテーブルの記されたリストを確認して無線機の周波数を調整しなおすと、一時的に周辺の電波を撹乱させるために指定した電波を流せと交換手に言い渡した。別にその電波である必要は無かったのだが、撹乱は必要なことだった。調度良い隠れ蓑が見つかったということにして、彼女はお節介という自分には似合わない類の行為を誤魔化し、眠りにつこうとした。
 悲鳴が聞こえたのは、一時二十分のことだ。ナルバレックは外そうとしていたサングラスをかけ直すと、カーテンごと窓を開けた。サングラス越しにも、紅い色が暗闇に染み出しているのが見える。しかしその色は一瞬にして消え、代わりに電光が一斉に視界を埋めた。遠野側の棟の部屋全ての電気がついたからだ。いや、一室だけ点いていない。それは先ほど、紅い色が染み出していた部屋ではなく、最も谷側に近い一階の一室だった。ナルバレックがそれまでの一連の流れを確認し終え、部屋を出たところで、管理人姉弟に出くわした。弟は何を邪推したのか工事用の安全ヘルメットを被り、姉はというと、眠そうな目で作務衣のなかなか上手く締まらない腰紐を締め直していた。
「こちらは大丈夫ということは、あちらですか?」
「ああ、そのようだ。警察には?」
「ご迷惑になりませんか」
 秀也が何を言わんとしているのか察したナルバレックは苦笑を浮かべてから、サングラスを外して語りかける。彼女なりの人を落ち着かせるための処世術だった。
「馬鹿を言うな。私は迷惑なんぞいくらでも振り払えるが、お前たちには無理だろう? 自分たちの宿で問題があれば、真っ当な方法を選べ。わかったな」
「わかりました。姉ちゃん、頼んだよ」
「近くの駐在さんの番号にかけた方が良いよね?」
「とりあえずはそれで良いと思うよ」
「わかった」
 管理人姉弟の間でのやり取りが終わり、蕗が階段を下りていくのを確認すると、ナルバレックは先ほどから気になっていた事案に手をつけた。秀也が被った安全ヘルメットがそれである。
「とりあえずそれを外せ」
「いや、でも……」
「お前の頭に届く一撃を放てる奴なぞ、そうそういない」
「アルクェイドさんは?」
 秀也がヘルメットを渋々廊下の脇に置くと、彼としては当然の質問をした。ナルバレックはそれすら苦笑で返す。
「ほうっておけ。よほどのことでもなければ起きんし、奴が起きてこないということは、大したことでもないのだろう」
「はあ」
 生返事をしながらもナルバレックの走り出しには遅れるところがない。意外に肝は据わっているようだ。二人が階段を降り、渡り廊下へ続く角まで走ったところで、翡翠の背中が二人の目に入る。
「電話は通じたか?」
「それどころではありませんよ。それよりも、魔法瓶をお忘れになりましたね」
「それこそ、それどころではないだろうに」
 秀也が早くと急かしているので早々に会話を切り上げ、今度は翡翠も従え、再び走り出す。ナルバレックは突き当たりまで続く廊下の中間地点あたりで、この廊下が意外に長いことに気がついた。外から建物を見た感じではそうは思わなかったのは、廊下自体は狭いという作り故の錯覚だろうか。途中、部屋のドアから顔を出した何人かと目が合うが、気にせずに走り抜ける。秀也はというと、頭を何度も下げて、何かの反動をつけようとしているかのようにナルバレックに続く。ようやく目的の部屋の前に二人が到着したところで、背中越しに声がかかった。
「これは何の騒ぎですか」
 遠野秋葉だ。ナルバレックは答える間でもないと悟り、とにかくドアを開けようとするが、鍵がかかっている。そこで心得ていた秀也がマスターキーをドアの鍵穴に差し込むと、錠が解けた。ナルバレックが勢いよくドアを開けると、それを待っていたかのように中から人が飛び出してくる。ナルバレックは咄嗟に片足を引いて半身になり避けたが、不運だったのは秀也だ。部屋から出てきた男性の肘鉄を額にもらい、彼がもんどりを打っている間に、半狂乱の男性は廊下を走り去っていく。
「おい、誰かあいつを止めろ、怪我をしている!」
 ナルバレックが叫んで初めて、他の人間がそれに気づいた。血。床には転々と、明らかに尋常ではない量の血が滴り落ちて染みを作っている。これでは助からないだろうな、とナルバレックと秋葉だけは考え、秀也のことを気にしつつ、部屋の中に確認に入る。中の明かりをつけると、中には女性が一人、真っ青な顔で倒れていた。幸いにも外傷は無い。遅れて入ってきた翡翠が、姉さん、と声を上げる。ナルバレックはその間に、鍵のかかった窓と、引き千切られたカーテンを見遣る。念のためにと窓を開けると、眼下は谷だった。ちらりと自分のいた部屋の方に目を遣ると、その隣の部屋の窓からアルクェイドが手を振っているのが見えた。あいつこそ馬鹿だ。彼女は思い切り力をこめてアルクェイドに向けて眼をくべると、振り返って部屋の外に出る。そこで再び悲鳴が耳に入る。そこで何らかの齟齬を覚えたのだが、直ぐに意識を取り直して、悲鳴が聞こえた方向へと走った。
「フキ!」
 少なくとも、悲鳴をあげそうな人物であちらにいるのは彼女しかいない。ナルバレックが渡り廊下にたどり着いたとき、そこでは蕗が腰を抜かしていて、その上には先ほどの男性が覆い被さっていた。
「大丈夫か」
「私はなんとも。でも、この人が」
 蕗は思ったよりも声に力があり、彼女の言葉通り、心配は無い様子だった。問題は男性の方で、とりあえず蕗の体から引き剥がし、横に寝かせる。男性の明らかに生気の抜けた顔には見慣れた死の化粧が自前で施されている。
「何度見ても、この手の醜さは度し難いな」
 顔から視線を外して、他の部分を確認していく。腹に刺さった果物ナイフの刃はその大部分が肉に埋まり、白羽は上に向いていて、明らかに殺意のこもった一撃であったことを示していた。ワイシャツの胸元にあるポケットからは、彼の者だろう名刺が見つかる。ナルバレックはそれを読み上げた。
「久我峰グループCEO……なんだ、随分と良い役職だったんだな。名前は――ケビン・マッカラム?」
「ちょっとあなた、こういう場合、あまりべたべた触るものじゃないでしょうに」
 追いついた秋葉が口を挟む。どうせなら彼女から聞いた方が良いかと思ったナルバレックは、素直に秋葉に従った。つい調子に乗ってはしゃいでしまった感もあった。あとは警察に任せた方が良いだろうか。いや、関わってしまった以上、事の顛末を見届けた上で圧力をかける対象を選ばなくてはならないだろう。どちらにせよ、向こう一年は再びここに来ないよう自粛しなければならないことを考えると、腹が立つ。腹が立つといえば、アルクェイドは未だにこちらを見つけては部屋の窓から手を振っている。ナルバレックは心底疲れてしまって、先ほど翡翠と一緒に座っていた場所に再び腰を落ち着けると、いつも上着の内ポケットに入れてある煙草ケースを取り出して、然るべく咥えた煙草に火を点けた。